リチャード・ライアン(、1979年8月8日 - )は、北アイルランドのレーシングドライバー。父親の趣味がレーシングカートであったため、幼少の頃からカートには親しんでいた。9歳でカートレースにデビュー。1996年にフォーミュラ・フォードで4輪レースに初参戦し、その年にはフォーミュラ・ボグゾールjr(ウィンターシリーズ)のシリーズチャンピオンに輝く。1998年にもフォーミュラ・ボグゾールjrに参戦しシリーズ2位。また、元F1ドライバーのジョナサン・パーマーが主宰するフォーミュラ・パーマー・アウディに参戦し、1999年にはシリーズ2位となるなど、ヨーロッパのジュニア・フォーミュラではその名を轟かせた。2000年はスポーツレーシングワールドカップ、フォーミュラ・ルノーに共にスポット参戦している。ヨーロッパのジュニア・フォーミュラで活躍していたリチャード・ライアンであったが、F3000などの上位クラスにステップアップするチャンスに恵まれず、方針を転換し、戦場を日本に求めて2001年に初訪日。全日本選手権フォーミュラ・ニッポンに参戦を開始した。2002年は一旦シートを喪失したが、第3戦美祢よりDANDELION RACINGから復帰し、その後2005年までの間チームの主力として活躍した。その間2003年には、第5戦鈴鹿にて初勝利を飾り、2004年は、優勝者が6人も輩出するなど戦国シリーズとなっていたが、第2戦菅生及び第4戦鈴鹿で勝利を挙げ、2位アンドレ・ロッテラーとは全くの同ポイントながら、有効完走着順が上位のため、リチャード・ライアンが年間チャンピオンとなった。一方、2002年からは全日本GT選手権・GT500クラスにも無限×童夢プロジェクトのNSXで参戦を開始し、NSXが得意とする第6戦もてぎで初勝利を達成する。2003年はNISMOに移籍し、スカイラインGT-Rを操って第2戦富士で勝利しシリーズ3位と躍進した。2004年は、日産陣営のエースである本山哲のパートナーとなって、日産の主力チームである1号車のフェアレディZをドライブすることになった。優勝こそ第6戦のオートポリスの1勝のみであったが、シーズンを通じて安定した成績を収め、シリーズチャンピオンを獲得し、日産の2連覇に貢献した。また前述の通り、フォーミュラ・ニッポンでもチャンピオンに輝き2冠を達成しており、彼のドライバー人生において最良のシーズンとなった。翌2005年も、チーム・パートナーとも体制を継続してSUPER GTに参戦し、第3戦セパンラで優勝するなど善戦したが、シリーズ3位に終わり日産3連覇の夢は達成できなかった。2005年で一旦日本を離れ、チャンプカーやF1へ挑戦することを目指したがシートを得ることが出来ず、2006年のSUPER GT第4戦セパンからF1に進出した山本左近に代わって参戦し、復帰戦で2位表彰台を獲得している。2007年は再び本山哲とコンビを結成しシリーズチャンピオンを狙うが、全9戦中6戦もリタイヤに見舞われ、第3戦富士で勝利するもシリーズ8位と成績は低迷した。2008年からはトヨタ陣営のTOYOTA TEAM CERUMOに移籍し、トヨタ陣営のエースの一人である立川祐路とコンビを組んで参戦している。第3戦 富士500kmで優勝。これでライアンはホンダ、日産、トヨタ 3メーカーで優勝を経験したことになる。2009年からはDANDELION RACINGに復帰し、フォーミュラ・ニッポンに参戦する。また冬季開催の国別対抗戦であるA1グランプリに2006年冬から2007年春にかけてアイルランド代表として出場、最高位5位、総合19位に終わる。
出典:wikipedia
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