言問橋(ことといばし)は、隅田川にかかる橋で、国道6号・東京都道319号環状三号線(言問通り)を通す。西岸は台東区花川戸二丁目と浅草七丁目を分かち、東岸は墨田区向島一丁目と二丁目を分かつ。もともと「竹屋の渡し」という渡船場があった場所である。関東大震災の震災復興事業として計画された橋。両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた長大な橋である。川端康成は小説『浅草紅団』(先進社、1930年)の中で、その直線的で力強いデザインを曲線的で優美な清洲橋と対比させ、「"ゆるやかな弧線に膨らんでいるが、隅田川の新しい六大橋のうちで、清洲橋が曲線の美しさとすれば、言問橋は直線の美しさなのだ。清洲は女だ、言問は男だ。"」と記している。「言問」という名称は在原業平の詠んだ、名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやとという歌に因むが、実際にこの業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」でのことであり、言問橋近辺には地名としては存在していたわけではないため、多くの説がある。有力な説としては、1871年(明治4年)の創業でこの地に現在もある言問団子の主人が団子を売り出すにあたって、隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名づけ、人気の店となったことからこの近辺が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことに由来するというものがある。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の際には、浅草方面の人が「川の向こうに行けば助かる」と思い言問橋を渡ろうとした。しかし反対の岸にいる住民(向島・本所地区)も同じ事を考えていたため、両住民が橋の上で合流してしまった。身動きが取れなくなったところで橋の上にも焼夷弾や火災旋風が容赦なく襲いかかり、耐えかねた人々は次々と欄干から身を躍らせ、死体で埋まった隅田川に落ちていったという。空襲が終わったあと、隅田川は一面凍死体が浮き、言問橋の上には死体を踏まないと向こう岸へ渡れないほど全面に黒焦げの焼死体が横たわっていた。河川敷にも積み重なった累々たる死体の山が築かれていた。戦後は蟻の街と呼ばれた廃品回収業者の共同体が形成された。この共同体は1958年に8号埋立地へ移転が決定し、1960年頃に移転が完了した。1992年(平成4年)から実施された改修工事で切り出された欄干の基部の縁石(色が黒ずんで変色している)が隅田公園に展示されている。また、江戸東京博物館の屋外通路(横網町公園側)にも取り外された欄干と縁石の一部が保存展示されている。ただし、橋の親柱は一部未改修のため、現在も東京大空襲の際に橋の上で焼け死んだ人々の血液や脂が焼き付いて残っている。2008年(平成20年)3月17日と18日の2日間に渡って日本テレビ系列で放送された、日本テレビ開局55周年記念番組のテレビドラマ『東京大空襲』では、言問橋がストーリーに密接に関わっている。2008年(平成20年)3月28日、両国橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定された。また、西詰(浅草方)は東京スカイツリーの撮影スポットでもある。
出典:wikipedia
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