福岡県立育徳館中学校・高等学校(ふくおかけんりつ いくとくかんちゅうがっこう・こうとうがっこう, Fukuoka Prefectural Ikutokukan Junior and Senior High School)は、福岡県京都郡みやこ町豊津にある県立中学校・高等学校。前述の通り、同校の起源は小倉藩の藩校「思永斎」にまでさかのぼる。思永斎は1758年(宝暦8年)5月1日に小倉藩主小笠原忠総の命により藩儒で朱子学者の石川麟洲宅で開校した。その後1788年(天明9年)1月22日に思永斎は小倉城三の丸に移転され、武芸稽古場が併設されて「思永館」と改称された。学頭には麟洲の二男である彦岳(げんがく)が就任した。小倉藩が豊津に移ったのは長州戦争の影響である。幕末のこと、禁門の変をきっかけに朝廷と幕府は長州追討令を発し、幕府軍と長州は一触即発の状態となったが、変の首謀者の処分、尊王攘夷派公家の九州移転などが行われたことで一旦戦闘は回避された(第一次長州戦争)。しかし高杉晋作ら尊王攘夷派が藩に戻ると再び長州は幕府に対して対決姿勢を見せるようになり、幕府は小倉と広島に兵を集結させた上で交渉にあたったが、交渉は決裂。1866年(慶応2年)6月7日に遂に戦闘が開始された(第二次長州戦争)。この戦争で小倉は激戦地となった。熊本藩の活躍もあって一時は長州軍を領内から追い出す事に成功するが、幕府の指揮の拙さもあって諸藩はほとんど戦闘に参加せず、さらに将軍徳川家茂の死を理由に幕府軍の総督が撤退したことで戦線は総崩れとなり、ついに小倉藩は後方に撤退して戦闘を継続する事を決定。8月1日には小倉城が焼却され、それに伴って思永館も焼失した。その後小倉藩は香春町に臨時の藩庁をおき、翌年5月1日には香春光願寺に「文武館」(香春思永館)が開設される。終戦後の1869年(明治2年))1月4日には正式に藩庁を錦原(後に豊津町(現・みやこ町))へ移して藩名も「豊津藩」と改称した。これに伴い、文武館も「育徳館」と改称された。翌年には1870年(明治3年)10月20日には育徳館分校として、大橋に洋学校を開設する。3学期制
出典:wikipedia
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