仙北郡(せんぼくぐん)は、秋田県(出羽国・羽後国)の郡。本項では旧称の山本郡(やまもとぐん)についても述べる。以下の1町を含む。1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、以下の区域にあたる。旧称の山本郡(現在の山本郡とは別)は、『日本三代実録』の870年(貞観12年)12月8日条に郡名が初めて見えることから、平安時代初期に平鹿郡から分離したと推定されている。その後、南隣の平鹿郡、その南の雄勝郡とともに山北三郡と呼ばれ、『吾妻鏡』では仙北山本郡と記され、その後中世を通じて北部を仙北北浦郡、南部を平鹿郡と合わせて仙北中郡と呼ぶこともあった。近世に入り佐竹氏が入部し、寛永4年(1664年)に領内の郡制を整備した際に仙北郡に呼称が統一され、このとき別に中世の檜山郡が新たに山本郡と改称された。このような郡名の混乱の原因は、副川神社(国内最北の式内社)の比定地を政治的な理由により変更した佐竹氏の神社行政にあると見る見解がある。「仙北」は、古い資料では「山北」「仙福」「仙乏」と表記していることもある。また、岩手県盛岡市内に「仙北町」という地名があるが、これは昔、本郡からの移住者が多かったことに由来する。古来、仙北郡北部の田沢湖町、西木村、角館町は「北浦」(きたうら)と呼ばれ、歴史的にもつながりが大きかったが、合併を巡っては問題が頻発している。当初、3町村は合併して新市「仙北市」を誕生させる予定であった。ところが、庁舎の位置や、行政プロセスのあり方などを巡って西木村・田沢湖町 vs. 角館町という対立構造が顕著になり、角館町は合併協議会を離脱した。これに伴い、西木村と田沢湖町は合併して新町「田沢湖町」を誕生させる予定で交渉を進めた。しかし、角館町議会は合併協議会解散の決議を否決し、合併の是非を問う町長の出直し選挙で合併推進派の新人候補が現職に大差で勝利した。そして、角館町が合併協議会に復帰、合併関連議案を可決したことで、2005年9月20日に仙北市が誕生することになった。なお、旧中仙町も北浦と呼ばれた地域であり、当初は北浦4町村での合併を模索していたが、離脱して大仙市に加入した。
出典:wikipedia
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