旗本奴(はたもとやっこ)は、江戸時代前期(17世紀)の江戸に存在した、旗本の青年武士やその奉公人、およびその集団、かぶき者である。派手な異装をして徒党を組み、無頼をはたらいた。代表的な旗本奴は、水野十郎左衛門(水野成之)。代表的な団体が6つあったことからそれらを「六方組」(ろっぽうぐみ)とよび、旗本奴を六方(ろっぽう)とも呼ぶ。同時期に起こった町人出身者のかぶき者・侠客を「町奴」と呼ぶ。慶長年間、1610年前後に現れた、大鳥居逸兵衛(大鳥逸平、1588年 - 1612年)ら一党が、江戸のかぶき者の先駆とされる。中間・小者といった下級の武家奉公人を集めて徒党を組み、異装・異風、男伊達を気取って無頼な行動をとる等の「旗本奴」の様式は、大鳥居一派から引き継がれている。1612年8月(慶長17年7月)、幕府は、大鳥居を筆頭に300人を捕らえ、斬首した。発生の原因として「戦国の遺風」であるとか、「旗本の不満」が噴出したものといった説が挙げられるが、実際には旗本そのものよりも、旗本に奉公する者中心であったとされる。「大小神祇組」(だいしょうじんぎぐみ)を組織した水野十郎左衛門(水野成之、1630年 - 1664年)は、実際に譜代の名門旗本・水野成貞の長男であり、それに加担した加々爪直澄(加賀爪直澄、1610年 - 1685年)は「かぶき大名」と呼ばれ、実際に初代高坂藩主の大名であった。「旗本奴」は、水野の「大小神祇組」のほか、「鉄砲組」(てっぽうぐみ)、「笊籬組」(ざるぐみ)、「鶺鴒組」(せきれいぐみ)、「吉屋組」(よしやぐみ)、「唐犬組」(とうけんぐみ)といった合計6つの団体が知られ、これを「六方組」と呼んだ。「六方組」の活動期は、万治年間(1658年 - 1660年)から寛文年間(1661年 - 1673年)までの間とされる。「唐犬組」の頭目は町奴の唐犬権兵衛であるが、「六方組」に含まれている。「旗本奴」といえば、白柄の刀、白革の袴、白馬に乗った「白柄組」(しらつかぐみ)であるが、水野の「神祇組」を指す説、「吉屋組」を指す説の2説ある。「旗本奴」と「町奴」との間には抗争が絶えず、なかでも、のちに河竹黙阿弥が書いた歌舞伎狂言『極付幡随長兵衛』(1881年10月初演)に描かれた、町奴・幡随院長兵衛を水野十郎左衛門が仕組んだ無防備な風呂場での暗殺、長兵衛側からの水野への仇討ちの件が著名である。武家出身の女剣豪・佐々木累(佐々木留伊)と旗本奴「白柄組」とが渡り合う話も知られている。異装・異風とよばれるファッション面だけでなく、独特な「六方詞」を生み、そのことばで詠む「六方俳諧」(ろっぽうはいかい)という文化を生んだ。「旗本奴」のムーヴメントの終焉は、頭目以下一党の幕府による処刑である。大鳥居一派300人を処刑した1612年8月のほか、1655年(明暦元年)に実施された明暦の博徒刈り込み、幕府の火付改加役(後の火付盗賊改)の肩書きをもつ中山勘解由(中山直守)が1686年10月(貞享3年9月)に実施した200人あまりの捕縛等、幕府は旗本奴、町奴を何度も弾圧している。1645年12月25日(正保2年11月8日)、麹町の真法寺で山中源左衛門が切腹にて死去。1664年3月14日(寛文4年2月17日)、「吉屋組」の頭目、三浦小次郎義也(三浦小次郎)が切腹となったとされる。同年4月23日(寛文4年3月27日)、水野十郎左衛門が切腹、家は断絶。「唐犬組」の唐犬権兵衛は、1686年(貞享3年)の中山勘解由による旗本奴・町奴一掃の折に獄門となったとされる。六方詞(ろっぽうことば)は、六方、いわゆる旗本奴が好んで使用した粗野な言葉・言葉遣いである。江戸時代前期(17世紀)の江戸における関東方言を基調としており、一種の武家言葉である。以下のような言い回し・語彙がある。奴詞(やっこことば)ともいう。文末の助動詞「べし」は「べい・べえ」の形で使用される。旗本奴のみならず、町奴も使用し、同時代の吉原遊郭での廓詞にも影響を与えた。六方俳諧は、奴俳諧(やっこはいかい)とも呼ばれた。水野と山中の辞世の句が六方詞の代表として有名である。
出典:wikipedia
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