河内(かわち)は、日本海軍の戦艦で、河内型戦艦1番艦である。艦名は2代目で「河内国」による。同型艦摂津との識別点として河内の艦首は直線型艦首であり、一方攝津のそれはクリッパー型だった。これは識別を明確にすると同時に、艦隊旗艦の任務が多くなるであろう河内の艦容の威厳を保つためと思われる。ただし、後述のとおり河内が艦隊旗艦もしくは戦隊旗艦となった時期は短いものだった。また主機であるカーチス式タービンは川崎造船所で製造された。日露戦争直後の明治40年度の計画により建造された戦艦2隻のうちの1隻で、計画時の名称は伊号戦艦(伊號戦艦)。1909年(明治42年)2月12日、計画艦名伊号戦艦を部内限りで河内と命名。4月1日、横須賀海軍工廠にて午前8時20分にキールが据え付けられ、起工した。翌1910年(明治43年)10月15日午後2時8分進水し、河内と命名された。進水式には明治天皇が臨席した。1912年(明治45年)3月31日竣工、引き渡された。河内建造の予算は明治44年度までで、竣工はその期限ぎりぎりだったことになる。竣工翌日の1912年4月1日に第一艦隊に編入、整備や補給をした後の4月22日に作業地へ向け出港した。5月24日、第一艦隊旗艦を香取から本艦に変更。1913年7月14日、第一艦隊旗艦を敷島へ変更し、22日本艦に復帰。1913年12月1日、第一艦隊旗艦を本艦から金剛へ変更。1914年(大正3年)8月に日本がドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参戦すると河内も8月から9月にかけて東シナ海や黄海の警備に従事した。1915年12月16日、第一艦隊旗艦を攝津から本艦に変更。1916年2月22日、第一艦隊旗艦を本艦から扶桑へ変更。1917年12月1日、第一艦隊第二戦隊に編入。12月2日、第二戦隊旗艦を鹿島(第三艦隊第五戦隊へ転出済)から本艦に変更。1918年3月12日、第二戦隊旗艦を本艦から攝津へ変更。1918年(大正7年)7月12日、徳山湾に停泊中の「河内」は15時51分に1番砲塔(舷側)から発火、15時54分に大爆発を起こして前部マスト倒壊、右舷舷側に大破口ができるなどし、船体は右に120度傾斜して転覆、水深約12mの海底に着底した。この事故により621名が殉職した。23日、攝津と河内は第二戦隊から削除されて攝津は第一戦隊へ転出し、第二戦隊は8月19日までは在役艦が無い書類上だけの隊となる。9月21日除籍。その後現場で解体された。以下、河内沈没後の動きを記す。
出典:wikipedia
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