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千曲バス

千曲バス(ちくまバス)は、長野県の小諸市、佐久市、東御市、上田市などに路線を持つバス会社である。本社は長野県佐久市大字野沢20番地である。創業は1926年(大正15年)。車輌台数は路線バス82輌、観光バス30輌で合計112輌 。長野県の東信地方に初めてバスが走り始めたのは、1913年に丸子と別所を結ぶ路線が丸子自動車により運行されたものに端を発する。その後、1919年4月に佐久自動車商会(小池森太郎が1918年12月に個人事業として設立)により小諸と御代田、岩村田と臼田、岩村田と望月を結ぶ路線が運行開始されたほか、小規模な事業者の設立も相次ぎ、上田市に小県自動車・片山自動車が設立されている。1919年には佐久鉄道が小諸と小海の間を結んでいたが、鉄道利用者が佐久自動車商会の路線に転移したため、危機感を持った佐久鉄道は鉄道の合理化と同時期にバスにも参入することを決定し、1927年9月より中込と海ノ口、中込と小海、三反田と御代田を野沢経由で結ぶ路線の運行を開始した。一方、1921年には上田市から青木・別所へ上田温泉電軌(後の上田交通)の鉄道線が開業した。当初は千曲川鉄橋が開通しておらず、1924年に千曲川鉄橋が開通して上田市内に乗り入れるまで、三好町駅と上田市街地の間は小県自動車のバスが連絡していた。この時点では鉄道とバスは協力関係にあったが、鉄道線が上田市内に乗り入れると鉄道とバスは競合関係に変わった。特に青木線と片山自動車は激しい乗客の争奪戦を展開することになった。1926年10月26日、小池森太郎は会社組織によるバス事業に変更するため小池自動車を設立し、佐久自動車商会のバス事業を承継した。これが千曲バスの直接のルーツとなる。その後も路線網を拡大してゆくが、不況の影響もあり、新車導入も満足に出来なかったという。1920年代後半に入ると、小規模なバス事業者が次々と設立され、佐久平のバス路線網は拡大されてゆくが、その一方で競合も激しいものとなった。1933年には鉄道省は佐久鉄道の国有化を決定、佐久鉄道のバス事業については三反田以北は小池自動車に、中込以南の路線は1934年に野沢を拠点として新設された佐久自動車に譲渡された。事業者同士の競合による疲弊が発生し、1931年に自動車交通事業法が公布されると、自主統合の気運が高まり、小池自動車も小規模なバス事業者を買収することで営業エリアを拡大していった。しかし、佐久鉄道が国有化され小海線になると運賃が下げられたため、逆にバスの利用者が鉄道に転移する事例も見られた。また、1936年には小諸と中込を結ぶバス路線が小池自動車・佐久自動車の双方に免許交付され、新たな競合も生み出されることになった。こうした中、小池自動車は1937年に資本金を16万円に増資のうえ、商号を千曲自動車代表取締役社長相馬朝四郎に変更している。一方、上田市での鉄道とバスの競合は、折りしも昭和の大恐慌により経営が悪化、さらに1938年に併用軌道区間の県道の借用期限が切れたため青木線の運行継続が不可能になったことから、青木線は廃止となった。直接的な廃止理由は借用期限切れであったものの、乗客争奪戦が繰り広げられていたことから、バスに敗れ去った鉄道の事例として挙げられることがある。しかし、青木線を廃止した上田温泉電軌は、逆に片山自動車など数社を買収し、自社のバス部門とした。1939年に上田電鉄に社名変更している。やがて第二次世界大戦に突入、1940年には千曲自動車が佐久自動車の全路線を買収するなど、統合はさらに進められるようになる。1941年までに東信地方のバス事業者は千曲自動車・東信自動車・上田電鉄)の3社に集約されることになった。さらに燃料事情の悪化に伴い、不要不急路線や鉄道並行路線などが休止された。そして、1942年には鉄道省通牒により強制統合が進められることとなったが、長野県では大きく6ブロックに分けられることとなり、このうち東信ブロックは千曲自動車が統合主体と選定された。これに伴い、1943年には東信自動車と上田電鉄(1943年10月に丸子鉄道と合併し上田丸子電鉄に社名変更)のバス部門を買収合併し、東信地方のバス事業者は一部に省営自動車が残る以外は、ほぼ千曲自動車に一本化されたのである。終戦時点で、千曲自動車の車両数は61台であったが、いずれも代用燃料車両であり、戦時中の酷使により老朽化も著しかった。1948年から代用燃料車の置き換えを開始、同年には新車12台が導入された。この前年の1947年には、松本電気鉄道(現在のアルピコ交通)との相互乗り入れにより松本と上田を結ぶ路線の運行を開始、また自社路線でも1949年から上田と臼田を小諸経由で直通運行を開始した。1950年代後半に入るとさらに長距離路線の新設が進み、1958年には臼田と長野を結ぶ特急佐久長野線を川中島自動車との相互乗り入れにより開始、1959年には初の県外路線として小諸と甲府を結ぶ急行甲府線を山梨交通との相互乗り入れにより開設した。また、1965年には特急軽井沢線として、長野と軽井沢を結ぶ路線の運行も開始している。一方、関連事業もこの時期より開始している。千曲自動車では観光開発に着眼し、松原湖に土地を取得した上で旅館「松原館」の営業を開始し、食堂や貸しボートなどの運営も行った。バス路線網が拡大されてゆく中、1960年代には車掌不足が顕在化したため、(1966年相馬朝四郎死去により社長退任)1968年12月の青木線から整理券方式のワンマン化が開始された。その後も順次ワンマン化は進められ、1972年までに基幹路線はほぼワンマン化された。道路事情により車掌乗務のまま残った路線についても1982年までにワンマン化されている。1970年代に入ると、モータリゼーションや過疎化の進行により、バス利用者は減少の一途をたどることになる。また、信越本線電化によって鉄道輸送事情が改善されたことから、信越本線と並行する路線では大幅に利用者が減少した。このため、長距離路線の運行は1973年までに休止となった。その一方で、利用者減少を埋め合わせるべく、沿線に存在する観光資源を活用することになり、白樺湖や高峰高原への路線が新設された。また、関連事業の拡大にも積極的に取り組み、ホテル・レストハウス・タクシー・自動車整備・広告代理店などの関連会社新設や買収などを行った。また、1970年4月には上信電鉄中込営業所を譲り受け、貸切バス専業の千曲交通として営業を開始した。しかし、バス利用者の減少には歯止めがかからず、千曲バスの経営を圧迫し、経営危機に陥ることになった。この時期、長野県内ではどのバス事業者も苦しい状況であり、1983年には川中島自動車が会社更生法の適用を申請する有様であった。千曲自動車においても銀行から新規の融資を受けるのも難しい状況に陥った。1981年には労使合意の上で再建を図る方針となり、同年10月より経営改善計画が実施されることになり、関連事業はさらに強化され、カプセルホテル・ラーメン屋(くるまやラーメン佐久店)・宅地販売などを手がけることになった。翌1982年6月、商号を千曲バスに変更している。また、観光に関連して、1982年にボンネットバスを他社から購入し、中山道宿場巡りの定期観光バスや白樺高原の観光路線で運行を行った。また、不採算路線の整理も営業所の統廃合も進められた。1982年7月に川上村村内の千曲バス路線を村営バスに代替した。これが初年度から黒字運営となったことから、1983年には北相木村・望月町・東部町・佐久町の千曲バス路線を自治体の運行による代替バスに移管するなど、過疎バス対策を進めていった。また、1986年には、代替バス補助金制度の変更により貸切バス免許による代替が認められたことを受け、同年10月に東信観光バスを設立し、以後の代替バスは町村営バス移管だけではなく、東信観光バスによる貸切代替バスによっても進められることになった。この時、中型・小型貸切バス事業も東信観光バスに移管している。また、東部町では町営バスの運行継続が困難になったことから、1990年に路線と車両を東信観光バスに譲渡している。しかし、経営状態は改善の兆しを見せず、1986年末の時点で長期債務を含めて16億円もの赤字を抱え、経営状態は極限に達しており、車両整備もままならない状況となっていた。この時点で、千曲バスには以下の3つの選択肢しか残されていなかった。社内でも意見は分かれ、労働組合ではグリーンキャブの資本が入ることに反発し、1988年に長期にわたるストライキを行ったが、自主再建は困難と判断されたことから、長野県が仲介に入る形で労使紛争を収拾させ、同年3月からグリーンキャブの支援を受けることになり、これに伴う経営改善計画が1989年3月までに順次行われた。1990年からは路線バスの冷房化も開始された。この時期、日本全国でブームの如く高速バス路線の開設が行われていたが、千曲バスも上信越自動車道の延伸を見据えて、1988年から1989年にかけて京浜急行電鉄と共同で往復タイプの帰郷バスを運行した。この実績から、1991年7月8日より千曲バス初の高速バス路線として、池袋と小諸を結ぶ高速バス路線を西武バスとの共同運行により開始した。上信越自動車道が佐久インターチェンジまで開通した1993年には軽井沢・上田・佐久を結ぶ3系統に発展させている。2004年には、別会社であった千曲交通を吸収合併した。その後、首都圏との高速バス路線により収益が盛り返したものの、路線バスの低迷は避けようが無く、運転手の規範意識の低下を招いている。実例としては、運行ダイヤの遵守意識の欠如(特に最終便など)・行先表示の誤提示運行(折り返し時の確認失念)・終点前の運行終了(乗客がいるにもかかわらず終点のバス停に行かず乗客から指摘される)などがある。これらは営業所や自治体を経由した苦情申立によっても改善されず、深刻な問題となっている。企業側の待遇改善などにより意識改革が行われることが望まれている。一般路線の状況が厳しい中、収益性の高い高速バスは同社の屋台骨的存在となりつつある。1991年7月8日に池袋への高速バス路線の運行を開始しているが、当初は1日2往復であったものが、2009年現在は3系統あわせて14往復にまで増便されている。また、2008年4月25日からは多摩地区への高速バスの運行を開始しているが、これは立川に道場のある宗教団体の信者が長野県に多いことも動機の1つとなったという。< >内は共同運行会社グリーンキャブ傘下に入る前の1986年時点では、野沢・小諸・上田の他に小海・望月・田中・青木・丸子にも営業所があり、さらにその営業所に属する車庫があった。また、同社直営ホテル「松原館」も営業所として分類されており、送迎車として路線車が1台配置されていた。その後、営業所の統廃合が行われ、2008年時点は3営業所体制、2015年現在では2営業所(小諸、上田)体制となっている。不採算路線を市町村営バスや廃止代替バス、コミュニティバスに移管した結果、通常の一般路線は路線数も運行本数も少なくなっており、幹線と位置づけられる路線の1つである佐久上田線でも、平日13本・休日8本程度への減便を経て、2014年10月からは土曜・休日の便が全休になるなど、運営の厳しさが増してきている。◎は、地域間幹線系統として、国・長野県・沿線自治体から補助を受ける。1988年にグリーンキャブ傘下に入るまでは、千曲バス本体では三菱・UDトラックス(旧:日産ディーゼル)の2社を主に導入し、千曲交通は日野車を導入していた。いすゞ車は1971年を最後に導入が途絶えていたが、1990年に中古車により導入を再開、近年は新車でも導入されている。また、1990年以降は千曲バス本体でも日野車の導入が行われている。2008年現在は国産4メーカーとも導入しているが、三菱車の比率が51%と高い。路線バスは1989年の導入車両までは非冷房車のみであったが、1990年以降は冷房化を進めている。冷房化の過程では譲受車などの導入も行われていたが、神奈川中央交通や成田空港交通などのバス事業者からの車両だけでなく、花王石鹸の社員送迎用車両を購入したこともあった。冷房車では貸切色となったが、東信観光バスの車両は冷房の有無にかかわらず全車両が貸切色であった。2008年5月20日現在では全車両が冷房車となり、旧路線色は消滅している。1982年には、創立55周年を記念した事業の一環としてボンネットバスの運行を開始している。千曲バスのボンネットバスは1969年に既に全廃となっており、備北バスからは1966年式のいすゞBXD30を、伊那バスから1967年式のいすゞBXD50を譲受し、前扉仕様への改造を行なった上で使用することになった。1115号車は路線バス標準デザインとなり、軽井沢起点の定期観光バスとして運用を開始したが、1985年に小諸車庫で台風により車体が破損したため、修復の際にレモンイエロー一色に「Shirakaba Kogen」とロゴを入れた塗装デザインに変更され、白樺湖や霧が峰近辺での貸切運用に使用された。一方、1117号車は当初よりレモンイエロー一色に「Yatsugatake Kogen」のロゴを入れるというデザインで、野辺山駅から八ヶ岳高原への観光路線で使用された。レモンイエローは、八ヶ岳山麓に自生するミヤマキンポウゲの花の色にちなんだものである。2台とも、経営再建の波の中で1990年代前半には運行を終了している。

出典:wikipedia

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