今津 光男(いまづ みつお、1938年7月8日 - 2005年11月7日)は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。尼崎高校では甲子園に投手として3回出場。2年次の1955年に春の選抜で準決勝へ進出するが、山本八郎・坂崎一彦を擁する浪華商に0-1で敗退。1956年の選抜は、準々決勝で県岐阜商の清沢忠彦(慶大-住友金属)に完封を喫した。同年の夏の選手権では、1回戦で青野修三を擁する西条高に惜敗。卒業後の1957年に中日ドラゴンズへ入団し、1年目は一軍出場こそ無かったが、ウエスタン・リーグの最優秀防御率を獲得。その後は自ら希望して遊撃手に転向し、2年目の1958年には牧野茂に代わりレギュラーとなる。1959年は故障もあって前田益穂に正遊撃手の座を譲るが、その後も内野の準レギュラーとして活躍。1965年には広島カープへ移籍し、古葉竹織と二遊間を組む。1968年には初の規定打席(26位、打率.234)に到達し、球団史上初のAクラス入りに貢献。1969年までレギュラーの地位を守るが、1970年には三村敏之に定位置を譲る。1974年には阪急ブレーブス、1976年には日本ハムファイターズにコーチ兼任として移籍。同年限りで現役を引退。引退後は日本ハム(1977年 - 1983年・1985年 - 1986年一軍内野守備コーチ, 1984年一軍守備・走塁コーチ)、オリックス(1990年一・二軍走塁コーチ, 1991年一軍守備・走塁コーチ)、近鉄(1992年 - 1993年一軍走塁コーチ, 1994年二軍野手総合コーチ)でコーチを歴任。オリックスコーチ時代は佐藤和弘と二人三脚の関係であったが、ほぼ「合宿での飲み友達」だったという話もある。1990年には日本ハム戦でトニー・ブリューワへの死球がきっかけで乱闘騒ぎが起こり、日本ハムの近藤和彦一軍打撃コーチを蹴り飛ばした事もあった。2005年11月7日、肺癌のため東京都清瀬市の病院で死去。享年67。
出典:wikipedia
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