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小早川繁平

小早川 繁平(こばやかわ しげひら)は、戦国時代の武将。安芸の国人領主。沼田小早川氏の当主。天文11年(1542年)、小早川正平の長男として生まれる。天文12年(1543年)、父・正平が大内義隆の出雲の尼子氏遠征(月山富田城の戦い)に参加し、大敗を喫して撤退するときに戦死したため、僅か2歳で家督を継いだ。しかし幼少のために政務を執れず、また病弱であった。このため、天文12年(1543年)から天文13年(1544年)にかけて尼子晴久の侵攻を受けるが、家臣団が結束して籠城し、これを撃退した。ところが、繁平は天文13年には病気のために盲目となったため(実は盲目ではなかったという説もある)、家中の動揺を招いた。大内義隆は、病弱かつ盲目である繁平では尼子氏の侵攻を防ぐことはできないと判断。天文19年(1550年)、義隆と毛利元就が介入し、繁平が尼子氏と内通したとして、居城の高山城から追放してその身柄を拘禁した。これに反対する家臣・田坂全慶らは誅殺された。そして義隆は既に竹原小早川氏を継いでいた元就の3男・小早川隆景を繁平の妹と結婚させた上で、天文20年(1551年)に沼田小早川氏の家督を継がせた。こうして両小早川家は再統一されたが、2人の間には子供ができなかったため、桓武平氏流小早川本家の血筋は途絶えることになった。その後、繁平は毛利元就の計らいにより、剃髪して禅に帰依し、教真寺に入って余生を過ごした。天正2年(1574年)、33歳で死去。

出典:wikipedia

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