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東京湾要塞

東京湾要塞(とうきょうわんようさい)とは、東京湾周辺の防衛を目的に設置された要塞。東京湾の砲台及び海堡等の建築物を東京湾要塞司令部が管理をした。終戦時は第12方面軍隷下の東京湾兵団に属している。明治時代に建設が始まり、逐次設備を増やしつつ、太平洋戦争(大東亜戦争)の終了時まで運用された。東京湾要塞は、帝都東京を脅かす海からの攻撃に備えるため、明治政府によって1884年より建造開始された東京湾周辺の軍事施設の集合体で、最初は清国北洋水師、次にロシア太平洋艦隊の来攻が想定しての施設であった。主要な設備は、千葉県館山市の洲崎から富津市の富津岬にかけての沿岸と、浦賀水道を囲む形で神奈川県三浦市の城ヶ島から横須賀市の夏島にかけての沿岸に建造された沿岸砲台、三つの海堡(かいほう)からなる。1894年に「臨時東京湾守備隊司令部」が置かれ、翌1895年には「東京湾要塞司令部」が横須賀市上町に置かれた。 日露戦争の旅順攻囲戦においては、東京湾要塞が持つ28サンチ榴弾砲のうち米が浜砲台より6門、箱崎高砲台より8門、他4門が旅順へと送り込まれ、第二回旅順総攻撃以降ロシア軍陣地攻撃・旅順港砲撃に使用された。昭和時代には、沿岸砲台には軍縮によって余剰となった艦砲が海軍から移管・設置され、東京湾の湾口部全体を射程に納めることとなった。これにより東京湾要塞は沿岸砲台の射線を第一線、海堡と横須賀近辺の射線を第二線とし、二段構えで湾内に侵攻する敵艦隊の撃破が可能となった。2015年3月10日、猿島砲台跡・千代ヶ崎砲台跡が「東京湾要塞跡」の名称で国の史跡に指定された。明治以降の軍事関連施設では初の指定になる。東京湾要塞の重要な設備として、東京湾入口の最挟部である富津岬から観音崎を結ぶように造成された人工島の海堡がある。海堡には砲台と砲台を運用するための設備が備えられ、浦賀水道の沿岸砲台を突破した敵艦艇を海上から砲撃する任務を持っていた。このため各海堡の備砲は横須賀側の猿島や走水の砲台と合わせて全体で浦賀水道全体を射程に納めるように配置され、沿岸砲台と協調して敵艦艇を左右と前から挟撃する態勢が取られていた。海堡は、明治の中頃に建設が始まり30年にわたる海上工事と多大な工事費、及び犠牲者を出しつつ大正時代に完成を見て15センチカノン砲などが配備された。しかしながら、第三海堡が完成した2年後の関東大震災によって第二・第三海堡が被災、復旧は困難との判断になり除籍され、第一海堡のみの運用となる。第三海堡は特に地震による被害が甚大で、4.8メートルも沈下し全体の三分の一が水没してしまい、その後も少しずつ侵食が進み暗礁となってしまう。近年、海上交通の安全において、第三海堡は大きく支障があるとのことで、2000年12月から2007年8月にかけて撤去作業が行われた。第一・第二海堡は現存しているが、老朽化した第二海堡の護岸が地震で崩壊した場合に土砂が隣接する航路まで流出するおそれがあることから、第二海堡では護岸整備工事が行われている。また第二海堡には海上保安庁によって灯台が設置されている。富津岬の展望台からはこれら海堡周辺が一望にでき、浦賀水道を制する海堡の配置をうかがうことができる。

出典:wikipedia

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