吹雪型駆逐艦(ふぶきがたくちくかん)は、大日本帝国海軍(以下海軍)がワシントン条約下で建造した艦隊型駆逐艦である。計画時の呼称は特型駆逐艦(とくがたくちくかん)。これは、1924年に艦政本部に対して要求された「新型駆逐艦」の過酷な要求を満たすため、艦政本部内に設けられた「特型駆逐艦対策委員会」の名称が基となっている。合計24隻が建造された。ただし、特型は次級である初春型駆逐艦と白露型駆逐艦および朝潮型駆逐艦を含む呼称として使用された例もある。あらたに登場した本型(特型駆逐艦)に対し、従来の睦月型駆逐艦・峯風型駆逐艦・神風型駆逐艦は『並型駆逐艦』と表現された事例もある。「吹雪型」命名前(後述)の呼称は第三十五号型駆逐艦(だいさんじゅうごごうがたくちくかん)、命名後は「吹雪型駆逐艦」で統一しており、ネームシップの「吹雪」沈没後白雪型駆逐艦(しらゆきがたくちくかん)に改定され、さらに初雪型駆逐艦(はつゆきがたくちくかん)と改められた。ワシントン条約により、戦艦を始めとする大型艦の建造制限を受けた日本海軍が、条約の制限を受けない補助艦艇の整備を強化する方針を打ち出したことにより建造された新型駆逐艦が本型である。二段式の甲板や凌波性能を追求した船形による良好な航海性能と、艦橋を露天式から密閉式に改めるなどの居住性の改善、排水量に対して重武装(砲塔式12.7cm連装砲3基、61センチ魚雷9射線を中心に配備し予備魚雷も搭載した)の本型の出現は、当時の列強海軍駆逐艦に衝撃を与えた。太平洋戦争開戦時には既に旧式艦と見なされていた本型は当初酸素魚雷こそ装備していなかったものの、太平洋戦争では水雷戦隊の主力や、空母護衛、輸送船団護衛として活躍したが、結果として損害も多く、建造された24隻の中で終戦時まで残存した艦は、2隻(潮、響)のみである。ワシントン条約により、主力艦、航空母艦の保有比率制限(英5:米5:日3)及び巡洋艦の建造制限(排水量10000t以下・搭載砲は重巡で8インチ、軽巡で6.1インチ以下)をうけた。海軍は、それまで八八艦隊計画の予算の都合から中型の一等と小型の二等の2系統で駆逐艦の建造を進めていた。しかし、条約締結によって主力艦の建造保有規模の縮小を余儀なくされたため、それを補完するために制限をうけない軽巡洋艦以下の補助艦艇を整備・強化する事に活路を見出す方針を打ち出した。駆逐艦もこの方針に沿って、計画の見直しで予算の制約もなくなったこともあり、手始めに峯風型駆逐艦の拡大型である睦月型駆逐艦を建造した。睦月型駆逐艦は当時としては高性能かつ重武装艦(速力37.3kt 航続力14ktで4000浬 兵装:61糎三連装魚雷発射管/2基6射線 12糎単装砲四基)であるが、軍令部の要望はそれをはるかに上回る、速力37kt・127mm砲6門・61cm魚雷発射管9射線というものだった。この要請を実現したのが藤本喜久雄造船大佐(当時)である。彼はそれを実現させるため、軽巡洋艦夕張の手法を取り入れ、新技術(半自動溶接等の新方式の電気溶接法など)を積極的に採用することによって徹底的な軽量化を試み、更に後部主砲を背負い型にすることにより、基準排水量1700トン以下でほぼ要望通りの駆逐艦を設計することに成功した(図面上よりはかなり重くなった)。屋根付きのブリッジ、シールド付きの砲塔などこの後の日本海軍駆逐艦の基本形ができあがった。これが本型である。吹雪型は、強い印象を内外に与え、海軍の分類に準拠した特型駆逐艦という呼称が有名になった。軽合金が多用されたのも初期の特徴だが、当時のアルミ合金は耐海水性が悪く腐食が激しく使用を中止された。竣工後は続々と水雷戦隊、特に最前線で活動する第二水雷戦隊に配属されて日本海軍の主力を担った。大型かつ重武装である吹雪型の存在は当時の各国海軍に衝撃を与え、ロンドン海軍軍縮会議にて大型駆逐艦の保有枠が新たに設けられる事態や、アメリカ海軍のポーター級、イギリス海軍のトライバル級等の特型駆逐艦対抗した様々な駆逐艦が生まれる結果となった。国外に様々な影響を与えた吹雪型であったが、国内においては訓練中に起こった事故や問題が発生していた。訓練中の事故で本級の「電」と衝突した「深雪」が沈没する事故や第四艦隊事件によって発覚した強度不足問題等である。特に後者は強度不足を踏まえて改善工事が行われ、船体強化により耐波性や凌波性は優秀なままであったが、重量が増大し速力が34ノットまで低下することとなった。太平洋戦争時には既に陽炎型駆逐艦等の最新鋭駆逐艦が主力となり第一線は譲っていたが、吹雪型も最前線で運用された。なお陽炎型駆逐艦の18ノットで5,000海里に対して、1943年(昭和18年)9月時点での「響」の航続距離は17ノットで1,600海里と報告されている。開戦時には23隻あった吹雪型であったが、終戦時には「潮」と「響」のみが残存していた。「潮」は後に解体され、「響」はソ連海軍へ譲渡されて1970年台まで在籍していた。本型は、建造期間が長いこともあり、いくつかの種類で分類される。現代において一般的によく使われるのは船体構造を元にする二つの分類法である。すなわち、搭載砲によって3タイプ(+1タイプ)に分ける形と、「吹雪」から「潮」までの20隻と、機関を改良した「暁」以降4隻を改吹雪型(暁型)として2タイプに分類する形である(英語版ウィキペディアのの記事を参照)。本項では、前者を採る。なお当時は他にも、駆逐隊を組むために4隻単位で建造を計画されたことから、吹雪から4隻ごとに雪級、雲級、波級、霧級とする分類も見られたほか、吹雪型を16隻とし、後期型8隻(朧、曙、潮、漣、響、雷、電、暁)を朧型とする場合もあった。ただし日本海軍の艦艇類別等級表上はあくまで全隻「吹雪型駆逐艦/白雪型駆逐艦/初雪型駆逐艦」であり、これらの呼称は便宜的なものである。なお吹雪型の次級である初春型駆逐艦の当時9隻(初春型《初春、子日、若葉、初霜、有明、夕暮》、白露型《白露、時雨、村雨》)も特型駆逐艦として分類している資料もある。庭田尚三造船中将(呉海軍工廠造船部長として大和型戦艦1番艦「大和」建造を指揮)は、初春型駆逐艦・白露型駆逐艦・朝潮型駆逐艦を『特型駆逐艦○○型』と分類している。日本海軍の駆逐艦として初めて12.7センチ砲を搭載した。この砲は、高角砲を主兵装とした秋月型駆逐艦(乙型)、松型駆逐艦(丁型・改丁型)を除く、これ以降の日本駆逐艦の標準砲となった。吹雪型には前述の通り吹雪型(I型)にはA型連装砲架、それ以降はB型連装砲架をそれぞれ3基6門搭載した。現在残された写真を見ると友鶴事件、第四艦隊事件での改装工事でB型砲はC型砲に近い砲盾に変更、もしくは交換された。また大戦中に対空砲火増強のため2番砲が撤去されている。この工事は1943年(昭和18年)秋から翌年にかけてと言われている。前型の睦月型駆逐艦では駆逐艦で初めて61cm魚雷を搭載し、また3連装魚雷発射管も初めて採用された。吹雪型も引き続き61cm3連装魚雷発射管(正式名称は一二年式六一糎三連装水上発射管)を採用したがこれを3基(9射線)搭載し、射線数では1.5倍となっている。次発装填装置はまだ搭載されなかったが、9射線は後の島風(15射線)に次ぐ射線数だった。魚雷発射管は初期のタイプではシールドがなく、後に追加された。魚雷発射管に初めて防盾を装備したのは綾波型の敷波と言われている。この防盾は荒天時における発射管の操作性向上に大いに効果があった。それ以前の艦は改装工事のさいに追加装備した。暁型以降は標準装備とされ、吹雪型以前の駆逐艦も順次装備していった。試作の盾はジュラルミン製であったが海水による腐食が早く、各艦に装備された盾は3mmの鋼製に変更となっている。魚雷は当初八年式魚雷18本を搭載し、後に九〇式魚雷(12本から18本、艦により違う模様)に変更された。また、1943年(昭和18年)8月以降には一部の艦(薄雲・白雲・浦波・夕霧・曙・潮・響)の魚雷発射管が改造され、九三式魚雷(酸素魚雷)が搭載されている。当初の計画では毘式40mm単装機銃2挺の搭載を予定していたが実現せず、吹雪型(I型)は留式7.7mm単装機銃2挺を装備した。綾波型、暁型は毘式12mm単装機銃(口径は正確には12.7mm)2挺に増強された。いずれにしても大戦中の対空戦闘には全く不足しており1943年(昭和18年)後半以降順次増強された。吹雪型の場合はなどがなされた。あ号作戦(1944年6月)時点での各艦の対空機銃は以下の通りである。終戦時残存した潮と響の最終時の兵装は以下の通り。潮響電探(レーダー)は前檣を改造して22号1基、後檣に13号を1基装備していた。この時は公試排水量2,300トン、速力34ノットとなっていた。八八艦隊計画による大建艦計画により艦名不足が心配され神風型[II] 、若竹型より駆逐艦は番号名となった。しかしワシントン軍縮条約により計画は中止、艦名不足の心配は無くなり1928年(昭和3年)6月20日の達第80号(8月1日より施行)で固有艦名へ改名した。吹雪型駆逐艦も初期の艦は番号名で命名され、うち数艦は番号名で竣工した。しかし直後に固有名に改名されている。注:←は左に同じ。「敷波」以降は固有艦名で命名されている。計画順に列挙当初より4隻ずつで駆逐隊を組んでいたが、一時期は3隻体制に変更していた。開戦前に再度4隻体制に戻った。呉鎮守府籍の吹雪・白雪・初雪・深雪で編成。1924年(大正13年)末に解隊した神風型駆逐艦 (初代)からなる先代に続く七代目の第十一駆逐隊である。太平洋戦争中、吹雪型叢雲、天霧、夕霧を編入した。呉鎮守府籍の叢雲・東雲・薄雲・白雲で編成。1924年(大正13年)12月1日に第6掃海隊に改称した春雨型駆逐艦・神風型駆逐艦 (初代)からなる先代に続く二代目の第十二駆逐隊である。呉鎮守府籍の磯波・浦波・綾波・敷波で編成。1943年(昭和18年)4月1日以降は、水雷戦隊には属さずに行動した。横須賀鎮守府籍の朝霧・夕霧・天霧・狭霧で編成。1924年(大正13年)12月1日に解隊した東雲型駆逐艦4隻からなる先代に続く三代目の第八駆逐隊である。1939年(昭和14年)11月1日付で呉鎮守府に転出したため、二代目の第二十駆逐隊となる。横須賀鎮守府籍の朧・曙・漣・潮で編成。1931年(昭和6年)10月31日に解隊した樺型駆逐艦4隻からなる先代に続く六代目の第七駆逐隊である。なお、吹雪型はすでに3隻体制に移行していたため、漣が所属するのは1939年(昭和14年)11月15日になってからである。また、太平洋戦争開戦時には第一航空艦隊に所属し、その後も同艦隊第十戦隊や連合艦隊直属になるなど、戦艦「大和」(第二次ソロモン海戦時)や大鷹型航空母艦の護衛、あるいは輸送船団の護衛任務に従事した。太平洋戦争後半では北方部隊・第一水雷戦隊所属となる。稼働艦の減少にともない、太平洋戦争末期に満潮型霞、吹雪型響を編入した。横須賀鎮守府籍の暁・響・雷・電で編成。1932年(昭和7年)4月1日に解隊した樺型駆逐艦4隻からなる先代に続く四代目の第六駆逐隊である。なお、吹雪型はすでに3隻体制に移行していたため、暁が所属するのは1939年(昭和14年)11月15日になってからである。太平洋戦争緒戦では、南方作戦や蘭印作戦に従事。北方部隊所属時に、損傷した響の代艦として吹雪型薄雲を短期間編入した。空母機動部隊に所属してからは3隻編制(暁、雷、電)に戻り、ガダルカナル島の戦いに参加。第三次ソロモン海戦で暁が沈没。その後は、練成部隊である第十一水雷戦隊に所属して船団護衛に従事した。呉鎮守府籍の東雲・吹雪・磯波で編成。吹雪型を3隻体制に組み替えた際に新編されたが短期間で解隊。横須賀鎮守府籍の狭霧・漣・暁で編成。1918年(大正7年)4月1日に樺型駆逐艦4隻からなる先代第十駆逐隊が佐世保鎮守府第二二駆逐隊に転出した後に続く、三代目の第十駆逐隊である。こちらも短期間で解隊。
出典:wikipedia
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