セミー・シュルト(Sem Schilt、Semmy Schilt、1973年10月27日 - )は、オランダの男性空手家、キックボクサー、総合格闘家。南ホラント州ロッテルダム出身。正道会館/ゴールデン・グローリー所属。芦原会館空手六段。オランダ語ではセム・スヒルト、英語ではセミー・シュルトと発音される。1994年の北斗旗オープントーナメント初参戦時、格闘技通信編集長の朝岡秀樹がオランダ語読みと英語読みを混同した「セーム・シュルト」と呼んだことから、その読み方がそのまま定着し、本人もSeimと名前を表記することがあった。2012年に本人が日本語カタカナ表記も「セミー・シュルト」を希望すると表明し、日本で彼が参戦する大会を開く主催者もその通りに表記するようになった。北斗旗無差別級優勝2回、第9代無差別級キング・オブ・パンクラシスト、K-1 WORLD GP 2005、2006、2007、2009王者。初代K-1スーパーヘビー級王者、初代GLORY世界ヘビー級王者、GLORY GRAND SLAM ヘビー級世界トーナメント2012王者。両親共に極真空手をやっており、8歳の時に自身も極真空手を始める。後に芦原会館に移籍。20歳の頃には全英極真空手オープントーナメント、モスクワフルコンタクト空手オープントーナメント、オランダUSA大山空手オープントーナメントらで優勝。。ジョン・ブルミンが大道塾創設者の東孝と会談し、大道塾の大会に選手を派遣することを決め、1994年にシュルトを派遣させた。着衣総合格闘技団体大道塾主催の北斗旗オープントーナメントには1994年から4年連続出場。1994年11月5日には品野圭司に一本負けで1回戦敗退。翌年の11月11日には準決勝まで進出するも、中山正和に敗退。3位となった。1996年は組み技のトレーニングに集中的に取り組み、当時大道塾と関係の深かったパンクラスにも出場。山田学、近藤有己、柳澤龍志、渋谷修身と試合をした。そして11月16日には北斗旗オープントーナメントで外国人初の優勝者となった。1997年はパンクラスで5試合をこなし、11月16日の北斗旗オープントーナメントでは他の選手を全く寄せ付けず優勝し2連覇を達成した。1999年11月28日、無差別級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチで王者近藤有己に挑戦し、チョークスリーパーで一本勝ちを収め王座を獲得した。その後、2度の防衛に成功した。同王座は2003年の階級再編に伴い返上した。3月18日、2 Hot 2 Handleではアレクセイ・メドヴェーデフと対戦し、判定の結果、引き分け。5月4日、UFC 31ではピート・ウィリアムスと対戦。2ラウンドTKO勝ち。6月29日、UFC 32ではジョシュ・バーネットと対戦。1ラウンド一本負け。4月21日、K-1初参戦となったK-1 BURNING 2002では武蔵と対戦し、僅差の判定勝ち。試合後、「タフなファイトでした。思った通りの試合運びじゃ無かったけど、とりあえず勝ててうれしい。」とコメントした。6月23日、PRIDE.21ではエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、判定負け。8月28日、Dynamite!ではアーネスト・ホーストとK-1ルールで対戦し、引き分け。10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦ではマイケル・マクドナルドと対戦し、判定勝ち。K-1 WORLD GP 2002 決勝戦への切符を手にした。11月24日、PRIDE.23では当時のPRIDEヘビー級王者であったアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦し、1ラウンド一本負け。この試合に敗れ左肩を負傷したことを理由に12月7日のK-1 WORLD GP 2002 決勝戦を欠場した。7月13日、K-1 WORLD GP 2003 in 福岡でレミー・ボンヤスキーと対戦し、判定勝ち。12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2003では無差別級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチでジョシュ・バーネットと再戦。腕ひしぎ十字固めで3ラウンド一本負け。4月25日、PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦でガン・マッギーと対戦。1ラウンド一本勝ち。5月20日、IT'S SHOWTIMEにてアレクセイ・イグナショフと対戦し、終始パンチの連打で圧倒されて1ラウンドKO負け。これが打撃系格闘技における初敗北である。6月20日、PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUNDでセルゲイ・ハリトーノフと対戦。マウントパンチと鉄槌打ちの連打を受け血まみれになり1ラウンドTKO負け。なお、あまりに凄惨な試合内容からか、地上波放送でのこの試合はダイジェストのみの放送となった。この試合を最後にPRIDEから撤退した。11月6日、TITANSにてヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤと対戦。先制のダウンを奪われるが、逆転して2ラウンドKO勝ち。同年、正道会館に移籍しK-1に本格参戦する。5月27日、K-1 WORLD GP 2005 IN PARISのEUROPE GPで3試合をいずれもKOもしくはTKO勝利で優勝し、グランプリ出場を決める。9月23日、K-1 WORLD GP 2005 IN OSAKA 開幕戦ではグラウベ・フェイトーザに判定勝ち。11月19日、K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦では身体をそれまでになく絞って臨み、準々決勝のレイ・セフォー戦では3ラウンドにダウンを奪っての判定勝ちを収め、準決勝のレミー・ボンヤスキー戦、決勝のグラウベ・フェイトーザ戦ではそれぞれ1ラウンドKO勝利し優勝。総合格闘家としてはK-1史上初、空手家としてはアンディ・フグに次ぐK-1史上2人目の王者となった。また、谷川貞治は「K-1史上最強のチャンピオンが出てきた感じ」と実力を絶賛した。12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!ではアーネスト・ホーストと再戦。2ラウンドTKO勝ち。3月5日、K-1 WORLD GP 2006 IN AUCKLANDではピーター・アーツと対戦。やや消極的なファイトとクリンチの反則もあり、0-2の判定負け。これがK-1における初敗北である。4月29日、K-1 WORLD GP 2006 IN LAS VEGASでは武蔵と再戦し、判定勝ち。6月3日、K-1 WORLD GP 2006 IN SEOULではチェ・ホンマンと対戦。試合は明らかにシュルトが優勢だったにもかかわらず、地元判定によって判定負けを喫した。8月5日、HERO'Sでキム・ミンスと対戦。三角絞めで1ラウンド一本勝ち。9月30日、K-1 WORLD GP 2006 IN OSAKA 開幕戦ではビヨン・ブレギーに1ラウンドKO勝ち。12月2日、K-1 WORLD GP 2006 IN TOKYO 決勝戦では準々決勝のジェロム・レ・バンナ戦、準決勝のアーネスト・ホースト戦、決勝のアーツ戦の全てで判定勝利を収め、史上4人目となるグランプリ連覇を達成した。3月4日、K-1 WORLD GP 2007 IN YOKOHAMAでは初代K-1スーパーヘビー級王者決定戦でレイ・セフォーと対戦。1ラウンド終盤にセフォーの左フックでK-1初のダウンを喫するも、2ラウンド開始早々にカウンターの左ジャブ一撃でセフォーを失神させKO勝ち。6月23日、K-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMにおいて、K-1スーパーヘビー級タイトルマッチでマイティ・モーと対戦、勢いにのっているモーに対し、距離を取って決定打を許さず、前蹴りでダウン寸前に追い込み完封し3-0の判定勝ち。初防衛を果たした。9月29日、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16でポール・スロウィンスキーと対戦し、1ラウンドの左膝蹴りでKO勝ち。12月8日、K-1 WORLD GP 2007 FINAL準々決勝ではグラウベ・フェイトーザと対戦し、中盤にグラウベの必殺技であるブラジリアンキックを顔面に浴びてグラつく場面こそあったものの、それ以外では攻め続けて判定勝ち。準決勝ではジェロム・レ・バンナから2ラウンドTKO勝ち、決勝ではピーター・アーツから1ラウンドTKO勝利し、史上初となるK-1 WORLD GP3連覇を果たした。試合後、「来年はまだ誰も成し遂げていない4連覇を達成したい」とコメントした。1月12日、オーストリアで行われたLord of the Ringでギュールミノ・ナドルと対戦。パウンドで1ラウンドKO勝ち。4月13日、K-1 WORLD GP 2008 IN YOKOHAMAで行われたK-1スーパーヘビー級タイトルマッチでマーク・ハントと対戦し、1ラウンド終盤に右バックスピンキックでKO勝ち。2度目の防衛を果たした。6月29日、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAで行われたK-1スーパーヘビー級タイトルマッチでジェロム・レ・バンナと対戦し、2-0の判定勝ち。3度目の防衛を果たした。9月27日、K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16でピーター・アーツに0-2の判定負け。しかし試合後のインタビューで、「判定には納得しているか?」との質問にシュルトは「判定について言うことはありません。」と前置きしたものの「アーツ選手もたくさんクリンチをしていた。今日の試合ではレフェリーも観客もアーツ選手を応援していたんじゃないかと思います」と不満を洩らした。さらにK-1 WORLD GP 2008 FINALのリザーバー候補については「ぜひリザーバーの権利を与えてほしい。私は誰が相手でも勝ち抜く自信がある」と自信をのぞかせたものの、同大会のリザーバーからシュルトは外された。この件について谷川貞治は「シュルト選手と話し合って総合格闘技に行くことを決めました。リザーブマッチで王座に返り咲くという手もあったんですが、彼にはDREAMの王者になってK-1と両方の王者になること、エメリヤーエンコ・ヒョードルと闘いたいという願いがあるみたいですね。次の目標ができてホッとしてますよ」とコメントしていた。しかし、シュルト本人は決勝大会直前のインタビューにてリザーバーから外されたことについて聞かれると、「彼らは、トーナメントから僕を排除したのに加えて、リザーブ権すら与えてくれないなんて…まったく理解できないよ!僕はK-1から追い出されたと感じている!」と怒りのコメントを残し、さらに開幕戦でのアーツ戦の判定についても「僕にとっても謎だらけだよ!僕はピーター・アーツには負けなかった。あのジャッジ陣には敗北ってことになるのかな。でももし、あれで百歩譲っても、せいぜい延長戦突入でしょ?」と語っている。しかし、それでも「それでも貴方は、まだK-1が好きですか?」という質問に対して、「うん、そういう思いはまだ今も残っているよ。ファンの人たちは僕にとって素晴らしい存在だし、このスポーツそのものも、僕にとって非常にしっくりくるスポーツだ。一人の人間と一人の人間が殴り合い、蹴り合ってファイトする。分かっているだろ?これは本来、すごく分かりやすく、公平で、嘘偽りの無いものなんだよ。…そこに変な損得感情が入り込まない限りはね」と語り、K-1への複雑な想いを吐露している。12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜でマイティ・モーとDREAMルールで対戦し、三角絞めで1ラウンド一本勝ちを収めた。3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAにてヘスディ・カラケスと対戦。2ラウンドにダウンを奪い判定勝ち。5月16日、IT'S SHOWTIMEの初代IT'S SHOWTIME世界ヘビー級王者決定戦でバダ・ハリと対戦。序盤からパンチの激しい打ち合いとなりシュルトがダウン。立ち上がった後もハリのラッシュに押され2度目のダウンを喫してレフェリーがストップを宣告し1ラウンド45秒KO負けとなった。9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16で新星ダニエル・ギタから2度のダウンを奪い判定勝利。12月5日、K-1 WORLD GP 2009 FINALでは準々決勝のジェロム・レ・バンナ戦、準決勝のレミー・ボンヤスキー戦、決勝のバダ・ハリ戦の全てで1ラウンドKO勝利を収め、1998年にピーター・アーツが達成して以来、K-1史上2度目となる決勝大会での全試合1ラウンドKO勝利を達成し、アーネスト・ホーストと並ぶ史上最多の4度目の王座を獲得。さらに今大会での全試合時間の合計は5分43秒であり、アーツが1998年に記録した決勝大会の最短制覇記録(6分43秒)も更新した。4月3日、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAで行われたK-1スーパーヘビー級タイトルマッチでエロール・ジマーマンと対戦し、判定勝ち。4度目の王座防衛に成功した。10月2日、K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16でIT'S SHOWTIME世界ヘビー級王者ヘスディ・カラケスと戦い、カラケスのローキックを受け足が紫色に腫れ上がりながらも2-1の判定勝ちを収めた。しかし、1ラウンド終了時にシュルトのセコンドがリングドクターとレフェリーの許可を得ずにシュルトの負傷した右スネにテーピングを巻いたことがK-1ルールに違反しており、「このテーピングが無ければシュルトは試合を続行できずにTKO負けになっていた可能性があり、またドクターとレフェリーの許可なくテーピングをしたことに対するシュルトへの減点が行われなかった」と指摘され、さらに「2ラウンド終了時のジャッジの採点は一人がドロー、一人が1ポイント差でシュルトがリードだったが、3ラウンドは明らかにカラケスが優勢だったので判定は1-1のドローになるべきなのに不当な判定が下された」「シュルトは反則負けで失格にすべき」との抗議文がIT'S SHOWTIME責任者サイモン・ルッツとブラック・ラベル・ファイティング責任者レモン・ダールダーから提出されたものの、裁定に変更はなかった。12月11日、K-1 WORLD GP 2010 FINALでは、準々決勝でK-1ヘビー級王者の京太郎と対戦し、アグレッシブな攻めを見せ判定勝ちを収めた。準決勝ではピーター・アーツと5度目の対戦をし、1ラウンドはやや優勢に試合を進めたものの、3ラウンドはアーツのローキックとパンチに苦しみ減点1を取られ0-2の判定負けを喫した。なお、これがK-1のトーナメント戦における初黒星となった。2011年はK-1を主催するFEGが深刻な財政難に陥り、選手・関係者へのファイトマネー未払いが続出して大会が開催できなくなったこともあり、シュルトは一年間を休養に充てた。2012年、GLORYと契約。3月23日、United Glory 15にてブリース・ギドンと対戦し、ギドンのパンチやハイキックなどを浴びて苦戦を強いられるが、猛攻を仕掛けて判定勝ち。試合後、リング上のインタビューで「ギドンは本当に凄くタフだった」と相手を称えた。5月26日、GLORY 1にて初代GLORY世界ヘビー級王座決定戦でエロール・ジマーマンに3RKO勝ちを収めて同王座を獲得した。12月31日、DREAM.18 & GLORY 4にてGLORY GRAND SLAMヘビー級トーナメント2012に出場し、1回戦でブリース・ギドンと再戦し、2RKO勝ち。準々決勝でリコ・ヴァーホーベンに2R判定勝ち。準決勝でグーカン・サキに2R判定勝ち。決勝でダニエル・ギタに左ハイキックで1RKO勝ちを収めて優勝した。2013年6月、心臓病によって現役を引退することが発表された。シュルトは現在デビット・キリアをはじめとする後進の指導をしている。2013年12月21日、有明コロシアムで開催されるGLORY 13 TOKYOにて、アーツ、ボンヤスキーと共にシュルトの引退式が行われることになった。シュルトの引退試合は心臓病の回復次第で行われる。
出典:wikipedia
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