藤原 定頼(ふじわら の さだより)は平安時代中期の公家・歌人。権大納言・藤原公任の長男。中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首では権中納言定頼。寛弘4年(1007年)末に元服して従五位下に叙爵し、年が明けて侍従に任ぜられる。寛弘6年(1009年)右近衛少将に任ぜられると、少将を務める傍らで、寛弘7年(1010年)正五位下、寛弘9年(1012年)従四位下と昇進する。長和3年(1014年)に右中弁と文官に転じると、長和6年(1017年)正四位下・蔵人頭に叙任される。しかし、寛仁3年(1019年)弾正弼・源顕定を嘲笑した際、摂政・藤原頼通の発言を引き合いに出したことから、頼通の勘気を蒙りこの年の後半謹慎させられている。またこの事件の背景には藤原頼通と藤原教通の兄弟の対立も原因であったとされる。同年末には謹慎が解け、同じ蔵人頭の藤原経通と参議の任官を激しく争うが、経通の後塵を拝して左中弁への昇進に留まった。この人事に対して定頼は失望し、除目後初めての結政に遅参している。翌寛仁4年(1020年)参議兼右大弁に任ぜられて公卿に列す。治安2年(1022年)従三位、治安3年(1023年)左大弁兼帯を経て、長元2年(1029年)権中納言に任ぜられる。長元3年(1030年)清涼殿での宴において、御前作文の探韻を命じられた際、不正を行っていることが発覚した上に、さらにそれを誤魔化そうとしたため、関白・藤原頼通から「不正直」と批判されている。権中納言昇進後は、長暦2年(1038年)従二位、長久3年(1042年)正二位と昇叙はなされるが、10年以上に亘って兼官なしに据え置かれた。この状況の中、長暦3年(1039年)藤原頼通の反対を押し切って、内大臣・藤原教通が娘の生子を後朱雀天皇の後宮に入内させた際には、他の殿上人らが頼通に遠慮した結果、入内に参列する殿上人はわずか5名(内公卿は2名)であったが、定頼は権中納言・藤原経通とともに参列に参加している。長久4年(1043年)兵部卿を兼ねるが、翌長久5年(1044年)6月9日に病のため出家。少し軽薄な性格であったようで、小式部内侍にやり込められた逸話が残っている。相模や大弐三位などと関係を持った。音楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていたという。長元5年(1032年)の『上東門院彰子菊合』、同8年(1035年)の『関白左大臣頼通歌合』などに出詠。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に45首が入集。家集に『定頼集』がある。一条天皇の大堰川行幸のお供で和歌を詠んだときのこと、父の公任も同行していて定頼の歌の出来映えを心配していた。すると定頼の番になり読み手が上の句を「水もなく見え渡るかな大堰川」と読み始めた。満々たる大堰川を前にして「水もなく」とはどういうつもりだ、何という不調法な、と公任が思っていると「峰の紅葉は雨と降れども」と朗々と下の句を詠み上げた。そのあまりの見事さに、公任もうれしさをこらえきれず、思わず会心の笑みを漏らしたという(『西行上人談抄』)。『公卿補任』による。
出典:wikipedia
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