山上 憶良(やまのうえ の おくら、斉明天皇6年(660年)? - 天平5年(733年)?)は、奈良時代初期の貴族・歌人。名は山於 億良とも記される。姓は臣。官位は従五位下・筑前守。山上憶良は、春日氏の一族にあたる皇別氏族の山上氏(山上臣)の出自とされる。山上の名称は大和国添上郡山辺郷の地名に由来するとされ、山於(やまのえ)とも記される。一方で日本文学界において万葉学者の中西進が、憶良は天智・天武両天皇の侍医を務めた百済人憶仁の子で、百済の滅亡に際して父親とともに日本に渡来、近江国甲賀郡山直郷に住み着いたことから山上氏を称するようになったが、次第に土地の有力氏族である粟田氏に従属し同族化していったとする説を唱えている。この説に対しては、青木和夫、佐伯有清が、歴史学の立場から批判を加えている。大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らとともに、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。神亀3年(726年)筑前守に任ぜら任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など、家族への愛情、農民の貧しさなど、社会的な優しさや弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている。赴任先の太宰府市はもとより筑後、筑豊地方の嘉麻市などに歌碑が多数存在する(有名な句はほとんどこの地で詠まれている)。また、「子等を思う歌一首」とその反歌とが、岐阜県神戸町の神戸町役場入口ロビーに、書家の日比野五鳳による書として彫り込まれたものがある。
出典:wikipedia
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