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冲鷹 (空母)

冲鷹(ちゅうよう)は、日本海軍の航空母艦。大鷹型航空母艦の三番艦である。日本郵船の客船新田丸を航空母艦へ改造したものである。(注記:「冲」の字はサンズイではなくニスイ)。「冲」は高く昇って到達するの意があり、 鷹が大空高く昇っていく様を意味する。冲鷹の前身である新田丸は昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で、またドイツの新型貨客船3隻(シャルンホルスト、、)に対抗しつつ1940年(昭和15年)開催予定の東京オリンピックを見込んで、日本郵船が建造した豪華客船新田丸級三姉妹船の第1船である。新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり、日本郵船株式会社のイニシャルNYKに因んでそれぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている。新田丸は三菱重工業長崎造船所で建造され、1938年(昭和13年)5月9日起工、1939年(昭和14年)5月20日進水、1940年(昭和15年)3月23日に竣工している。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた。天洋丸、浅間丸、氷川丸といったそれまでの客船が西洋式の船内装飾だったのに対し、新田丸は中村順平(大阪商船の天津航路用だった長城丸の船内装飾を担当)、村野藤吾、山下寿郎、松田軍平ら建築家、公室や客室は三菱重工業長崎造船所の装飾設計陣、特別室は川島甚兵衞と高島屋が担当した新日本様式だった。一等ラウンジは六歌仙をエッチングで描き出し、それを松田権六による蒔絵で囲んでいた。前部エントラス・ホールは国産の天然木材をクリアラッカーで仕上げ、アルマイト板に尾長鶏が描かれていた。一等食堂のサイドボードは尾形光琳の紅白梅屏風を模した蒔絵が扉となり、開けるとスクリーンが現れた。これらの装飾は航空母艦の改造時に廃棄された。第二次世界大戦の影響でサンフランシスコ航路に就航していたが、日米関係の悪化に伴い航路は休止、1941年(昭和16年)9月12日、日本海軍に徴用される。新田丸徴用直前の9月5日、新田丸級貨客船3番艦春日丸は特設航空母艦として竣工、『春日丸級特設航空母艦』のネームシップとなった。太平洋戦争開戦当初、新田丸は運送艦として用いられた。1942年(昭和17年)1月12日、ウェーク島の戦い後の日本軍部隊を増強するため、上海から海軍陸戦隊をウェーク島へ輸送した。帰路、米兵捕虜1200名を本土へ輸送する。その際、幾度かの米兵反乱未遂事件により、海軍陸戦隊指揮官は前年12月26日の豊田副武呉鎮守府長官の命令に従い、捕虜5名を殺害した。その後も新田丸は兵員輸送任務に投入された。8月に海軍が買収し、8月10日より呉海軍工廠で航空母艦への改装が開始される。8月20日、新田丸から冲鷹(チュウヨウ)へと改名。同日附で航空母艦として登録される。三隻の中で最後の改造艦となった冲鷹は、大鷹(春日丸)、雲鷹(八幡丸)の運用経験から、当初より飛行甲板を10m延長した。対空火器も12㎝単装高角砲四基から12.7㎝連装高角砲四基に変更、機銃も増強されている。改装は1942年(昭和17年)11月25日に完了した。そのため本艦には他の2隻と異なり、特設航空母艦としての経歴は無い。同日附で横須賀鎮守府籍。さらに連合艦隊付属となり、航空機輸送任務に投入された。一方で、日本海軍の空母用カタパルト開発失敗と低速力により、大鷹型の航空機運用能力はカタパルトを装備したアメリカ軍の軽空母や護衛空母のそれと比較して限定的なものとなる。結局、隼鷹型航空母艦をのぞく日本海軍の商船改造空母が最前線に投入される事はなかった。航空機輸送任務に従事する空母にとって最大の敵は、日本近海にも進出していたアメリカ軍の潜水艦だった。12月上旬、冲鷹は竣工したばかりの空母龍鳳と航空機輸送を実施することになる。12月4日、連合艦隊は空母2隻(龍鳳、冲鷹)及び護衛駆逐艦2隻(時津風、卯月)に対しトラック島への進出を下令。搭載航空機は日本陸軍・白城子教導飛行団の九九式双発軽爆撃機だった。冲鷹は九九双軽23機(24機とも)を飛行甲板に露天繋止、搭乗員203名を乗船させた。ところが冲鷹で機関故障が発生し出港が遅れる見込みとなったため、龍鳳隊(龍鳳、時津風)が先行して出発することになった。12月11日、2隻(龍鳳、時津風)は横須賀を出発。12日午前9時10分、龍鳳は八丈島東160浬で米潜ドラム("USS Drum, SS-228")から雷撃され、右舷中部に魚雷1本が命中した。時津風に護衛されて出撃したばかりの横須賀へ引き返している。遅れて出港した冲鷹隊(冲鷹、卯月)はサイパン北西で第四水雷戦隊の駆逐艦2隻(第9駆逐隊朝雲、第27駆逐隊時雨)と合流、12月18日トラック泊地へ到着した。12月24日からの帰路、翌年1月2日からのトラック再進出の際も2隻(時雨、朝雲)が冲鷹を護衛した。1943年(昭和18年)2月7日、冲鷹は駆逐艦3隻(村雨、浦波、朝潮)に護衛されて横須賀を出港、ラバウル方面航空機輸送任務に従事する。2月8日、1日遅れて横須賀を出港した貨客船龍田丸と駆逐艦山雲は伊豆諸島御蔵島沖合で米潜水艦ターポン ("USS Tarpon, SS-175")の襲撃を受け、龍田丸が撃沈された(乗員約1400名総員戦死)。龍田丸沈没の速報は航行中の冲鷹にも届いたという。12日、4隻はトラック着。カビエン、ラバウル方面への航空機輸送任務を終え、2月20日横須賀に戻った。3月上旬、日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」部隊のラバウル進出が決定する。三式戦闘機を搭載した空母2隻(大鷹、冲鷹)は、重巡「鳥海」、駆逐艦4隻(漣、響、黒潮、親潮)に護衛されて4月4日に横須賀を出発した。4月8日夜、米潜水艦のタニー("USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282") が空母部隊を発見、距離800mの大鷹に対し艦尾発射管より魚雷4本を発射したが早爆した。魚雷命中と誤認したタニーが冲鷹に魚雷6本を発射するも、同じく早爆に終わった。10日、トラック泊地に到着して任務を終える。だが三式戦部隊はトラックからラバウルへの空輸において、液冷エンジンの故障・航空機による航法誘導の失敗により、不時着機や行方不明機を多数出してしまった。6月10日、横須賀を出港した空母飛鷹と第27駆逐隊(有明、夕暮)は米潜トリガー ("USS Trigger, SS-237") から襲撃された。被雷して航行不能となった飛鷹は軽巡五十鈴に曳航されて横須賀へ帰投した。6月16日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下、戦艦2隻(金剛、榛名)、巡洋艦3隻(熊野、鈴谷、五十鈴)、空母3隻(龍鳳、雲鷹、冲鷹)、駆逐艦部隊(第27駆逐隊《時雨、有明、夕暮》、第7駆逐隊《潮、漣、曙》、第16駆逐隊《雪風》、第17駆逐隊《浜風、谷風》、第24駆逐隊《涼風》、秋月型《新月》、夕雲型《清波》は横須賀を出発。6月20日、暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦スピアーフィッシュ ("USS Spearfish, SS-190")が空母(個艦不明)に対し魚雷4本を発射するが、速力を見誤っていたので命中しなかった。日本艦隊は6月21日にトラックへ到着した。7月10日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将が指揮する空母4隻(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳、冲鷹)、重巡3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡洋艦2隻(大淀、阿賀野)、水上機母艦日進、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、萩風》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月、初月》、夕雲型《玉波》)は横須賀を出撃。本艦には、マーシャル諸島やソロモン諸島派遣予定の陸軍部隊や重火器も積載されていた。7月15日、暗号解読や僚艦からの通報により、米潜水艦ティノサ("USS Tinosa, SS-283")とポーギー ("USS Pogy, SS-266")がトラック諸島近海で小沢機動部隊を待ち伏せていた。ティノサは距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され、小沢艦隊は被害なくトラック泊地に到着した。 9月7日、空母2隻(大鷹、冲鷹)は駆逐艦3隻(浦風、風雲、五月雨)に護衛されて横須賀を出発。11日に到着した。9月21日、島風型駆逐艦島風に護衛された空母2隻(冲鷹、大鷹)はトラック泊地を出発。24日、艦隊は先頭より島風-冲鷹-大鷹という単縦陣を形成し、速力20ノットで航行していた。悪天候の中、父島の北東200浬で、輸送艦隊は敵潜に襲撃される。午前7時前後、暗号解読により艦隊を捕捉した米潜カブリラ("USS Cabrilla, SS/AGSS-288")が魚雷6本を発射。大鷹の右舷に3本~5本が命中したが起爆した魚雷は艦尾への1本のみで、沈没には至らなかった。しかし機関部と舵を破壊された大鷹は航行不能となった。爆雷攻撃をおこなった島風は『敵潜撃沈』を報告しているがカブリラは沈んでおらず、またカブリラも島風の反撃と悪天候により大鷹を見失った。午後2時すぎに冲鷹による曳航準備は完了、冲鷹は姉妹艦を速力8~11ノット程で曳航し、横須賀へ向かった。また駆逐艦2隻(漣、白露)も合同し、島風と共同で空母2隻(大鷹、冲鷹)を護衛した。26日16時30分、5隻(大鷹、冲鷹、島風、漣、白露)は横須賀に到着。1943年(昭和18年)11月上旬のろ号作戦(ブーゲンビル島沖航空戦)で第一航空戦隊の母艦航空隊は大幅に消耗し、補充のため「瑞鳳」がトラック泊地より横須賀に帰投。11月16日、空母3隻(瑞鳳、冲鷹、雲鷹)は駆逐艦(秋雲、曙、潮、漣)に護衛されて横須賀を出発、21日にトラック泊地に到着した。11月30日、冲鷹は空母3隻(瑞鳳、冲鷹、雲鷹)、重巡洋艦摩耶、駆逐艦部隊(第7駆逐隊《潮、曙、漣》、第17駆逐隊《浦風》)という戦力でトラックを出港し、日本へ向かった。部隊指揮官は服部勝二瑞鳳艦長である。各空母にはソロモン・ニューギニアからの人員、機材が搭載されており、民間人を含む多数の便乗者も乗艦していた。さらに11月19日に駆逐艦山雲に撃沈された米潜スカルピン ("USS Sculpin, SS-191") の捕虜41名が内地の捕虜収容所へ送られるため雲鷹と冲鷹に分乗していた。また重巡摩耶(艦長は加藤与四郎大佐、前職冲鷹2代目艦長)は11月5日のラバウル空襲で大破しており、本格的な修理を行うため本土回航を命じられていた。その頃、トラック港湾部長が護衛艦隊司令部に発信した暗号を解読したアメリカ軍は、複数の潜水艦(スケート、ガンネル、セイルフィッシュ)に輸送船団の襲撃を命じた。スケートとガンネルによる襲撃は失敗した。12月3日夜、荒天のため瑞鳳隊各艦は分散してしまい、互いの位置すら掴めていなかった。一方、船団を追跡していたアメリカ海軍のサーゴ級潜水艦のセイルフィッシュ("USS Sailfish, SS-192")が悪天候の最中、レーダーで目標を探知した。当時の瑞鳳部隊は摩耶-瑞鳳-冲鷹-雲鷹の単縦陣だったという。12月4日午前零時12分、八丈島の東方海域の地点でセイルフィッシュは4本の魚雷を発射して命中音2本を確認、これに対し冲鷹は『0時10分、われに魚雷1本命中す、前部居住区火災、航行可能』と発信した。瑞鳳以下他艦艇は冲鷹と浦風を残して内地へ向かった。セイルフィッシュは落伍した冲鷹を追跡し、浮上すると5時50分(日本時間4時50分)に魚雷3本を発射、命中2本を記録しているが、実際の命中は1本であった。セイルフィッシュは冲鷹の左舷1500mを通過すると、潜航して9時40分(日本時間8時40分)に後部魚雷発射管から魚雷3本を発射。2回の命中音と破壊音を確認した。第三撃を受ける直前、曙が接近してきたという証言もある。セイルフィッシュは爆雷攻撃により深深度潜航を余儀なくされ、冲鷹の沈没を目撃しなかった。午前4時30分、瑞鳳は3隻(雲鷹、浦風、漣)に冲鷹の曳航命令を出していたが、冲鷹は姉妹艦の到着を待たずに沈没。随伴していた浦風の報告によればの地点で午前8時47分に沈没した。アメリカ軍によれば の地点で沈没。浦風は冲鷹副長以下約130名を救助、続いて到着した漣が運用長以下約30名を救助。他の乗組員・便乗者は総員戦死(戦史叢書では約1250名。一部資料では乗員533名と便乗者3000名中、生存者170名。冲鷹乗組員513名戦死)。冲鷹に便乗していた第一航空戦隊の熟練整備員や機械工員も多数が戦死したため、海軍航空隊の整備や修理能力にも影響を与えた。また冲鷹に便乗中のスカルピンの捕虜21名も、救助されたのは1名であった。1944年(昭和19年)2月5日、冲鷹は、大鷹型航空母艦、帝国軍艦籍より除籍された。

出典:wikipedia

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