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第4師団 (日本軍)

第4師団(だいよんしだん)は、大日本帝国陸軍の師団のひとつ。兵団文字符は淀。軍隊符号は4D。第4師団の前身は大阪鎮台。創設時の歩兵連隊は、第8、第9、第10及び第20連隊からなる。創設間もない鎮台時代から佐賀の乱・萩の乱・西南の役に従事。隷下連隊は江戸や地方と違って士族や農民が少なく商人の割合が多い大阪連隊だったが、西南の役では示現流で斬り込んで来る薩摩武士相手に多大な損害を出すも奮戦し、明治天皇直々にその勇敢勇戦さを賞されている。日清戦争時には遼東半島に上陸、同地の警備に当たる。日露戦争時には小川又次を師団長として、南山の戦い、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦に参加した。1937年(昭和12年)2月、師団は満州に駐屯し、まもなく盧溝橋事件が勃発。支那事変(日中戦争)では北支や満蒙を転戦していたが、1940年(昭和15年)7月に中支に派遣され、漢水作戦、予南作戦、江北作戦等に参加。1941年(昭和16年)9月には、第一次長沙作戦に従事。この後、師団は大本営直轄となり、来るべき南方作戦に備えて部隊の集結と再編成を行った(編制を4単位制師団から、3単位制に移行。篠山の歩兵第70連隊は第25師団に編入された)。1941年(昭和16年)12月8日勃発の太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦では、フィリピン攻略作戦に参加し、第2次バターン半島攻略作戦に従事。第4師団はコレヒドール島上陸に成功し同攻略戦の勝利に大きく寄与した。その後は本土警備に当たり、1943年(昭和18年)9月、再動員されることとなり、スマトラ島警備やビルマ方面を担当する第15軍の隷下に入りタイに移動、同国のランパンにおいて終戦を迎えた。鉄道唱歌の東海道第1集57番の劇中にて、「"三府の一に位して 商業繁華の大阪市 豊太閤の築きたる 城に師団は置かれたり"」と歌われた第4師団司令部は、大阪府東区馬場町(現大阪市中央区大阪城)の大坂城(大阪城)内に設置された。1918年7月1日、兵器部が大阪陸軍兵器支廠内仮事務所を閉鎖し師団司令部内に移転し事務を開始。当初は大坂城内の各所に司令部機能が分散していたが、1931年(昭和6年)に天守が再建された際に司令部も本丸南東角に建設された新庁舎(写真右の建物)に移転し、司令部機能を集約した。これは、昭和御大典記念事業として大阪市が本丸の公園化および天守再建を計画したことによる。1931年11月6日に大手前公園(1924年開園)と本丸を合わせ大阪城公園が開園。司令部庁舎の建設には市民からの募金のうち80万円が充てられた。設計は第4師団経理部によるもので、欧州の古城を模した重厚なロマネスク様式である。司令部庁舎には1940年(昭和15年)より中部軍管区司令部が入り、第4師団司令部は二の丸(現在の豊國神社鎮座地)に移転した。大坂城の東側には当時東洋最大と謳われた大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)もあり、大戦末期の1945年(昭和20年)8月14日にアメリカ陸軍航空軍から集中的な爆撃を受けた。工廠の大半は壊滅し、城郭も石垣の一部が崩落する等の被害が出たが、司令部庁舎は頑丈なつくりであったため大きな被害を受けることなく大戦を生き抜いた。戦後は占領軍が接収、解除後は大阪市警視庁、大阪府警察本部(現在は大手前に移転)や大阪市立博物館(現在は大阪歴史博物館に改称され大手前に移転)として使用され、天守と共に大坂城本丸の二大建造物かつ貴重な戦争遺跡として残っている。

出典:wikipedia

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