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福澤桃介

福澤 桃介(ふくざわ ももすけ、慶應4年6月25日(新暦:1868年8月13日) - 1938年(昭和13年)2月15日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。旧姓は岩崎で、福澤諭吉の婿養子となり福澤姓を名乗る。相場師として日露戦争後の株式投機で財を成し、その後実業界に転ずる。主として電気事業に関与し、名古屋電灯を買収して社長となり木曽川などで水力開発を手がけ、後に大手電力会社大同電力の初代社長となった。これらの電気事業での活動により「電気王」「電力王」と呼ばれるに至る。また、実業家としての活動の傍ら、一時期衆議院議員(当選1回)も務めたことがある。慶應4年(1868年)生まれ、武蔵国(埼玉県)出身。慶應義塾在学中に創設者福澤諭吉の養子(婿養子)となり、岩崎桃介を改め福澤桃介を名乗る。アメリカ留学の後、1889年(明治22年)より北海道炭礦鉄道(後の北海道炭礦汽船)に勤めるが、結核を患い辞職。療養生活中に株式投資に手を染めた。1898年(明治31年)から10年の間は製紙会社勤務、独立した商店の経営と失敗、再度の北海道炭礦鉄道勤務、日露戦争後の株式市場での活躍、紡績・肥料・ビール・鉱山・ガス事業などでの起業・投資、と複数の事業や会社に関係したが、最終的には電気事業の経営に落ち着いた。電気事業では1909年(明治42年)より中部地方の名古屋電灯を買収する。これに前後して他にも九州地方をはじめ各地の電気事業に関与した。1912年(明治45年)から1914年(大正3年)まで衆議院議員を1期のみ務め、1914年には名古屋電灯社長に就任して木曽川開発に着手。1921年(大正10年)、戦前期の業界大手「五大電力」の一角である大同電力初代社長に転じ、大井ダムをはじめとする木曽川の電源開発を主導した。電気事業での活動により「電気王」「電力王」の異名を取るに至る。1928年(昭和3年)に実業界を引退し、1938年(昭和13年)に死去した。福澤桃介、旧名岩崎桃介は、慶應4年6月25日(明治元年、新暦:1868年8月13日)、武蔵国横見郡荒子村(現・埼玉県比企郡吉見町荒子)に生まれた。父は岩崎紀一、母はサダといい、桃介は男女各3人の6人兄弟の次男であった。父の紀一は北足立郡原市町(現・上尾市)の名主の家の出身で、岩崎の本家も代々名主を務める家柄であったが、紀一が婿養子に入ったサダの家(桃介の生家)は末端の分家であり、少しの土地を持つのみの水呑百姓であった。農業だけでは生活できないため生家は荒子村で雑貨や荒物を扱う商いも手がけていたが、桃介と2人の妹が生まれたところで川越町(現・川越市)に移り住み、ここで提灯屋を開業する。桃介は川越の小学校へ通うようになったが、貧乏で下駄を買うのが容易でないため裸足で小学校へ通学したという。1878年(明治11年)川越に第八十五国立銀行が設立されると、父紀一が提灯屋を廃業して同銀行に勤めるようになり家計はやや楽になった。学問好きということで小学校へ通う傍ら川越の漢学塾にも通い、卒業後は父の実家に預けられて原市町の漢学塾で学ぶ。兄の育太郎は小学校を出るとすぐ丁稚奉公に出されていたが、桃介は学問ができるということで川越の中学校に進んだ。中学校を出ると、政治家を志し上京して学問を続けようということになり、福澤諭吉が開いている「慶應義塾」へと入学した。1883年(明治16年)夏、16歳のときのことである。岩崎桃介が通う慶應義塾では、しばしば運動会が開かれるようになって評判を集めていた。運動会で桃介は駆け足が得意であったという。この運動会は福澤諭吉も妻や娘を連れて見物しており、学生の運動振りを見ながら娘の婿選びの機会になっていると噂されていた。桃介が運動会に参加していた当時は、諭吉の次女である房(ふさ)の結婚問題が福澤家には起きていた。その折柄、運動会で桃介の姿が諭吉の妻・錦の目に留まる。長女の里の賛同も得、諭吉も乗気になり、桃介は房の結婚相手に抜擢された。福澤家側は卒業後の洋行(留学)費用を出すという条件で桃介を婿養子に誘い、桃介の側もこれを承諾して養子入りが決定。1886年(明治19年)12月17日付で、房との結婚を前提に桃介は福澤家へ養子入りして福澤家の人間、すなわち福澤桃介となった。桃介自身はこの養子入りについて後に自著にて、世間では諭吉が桃介を将来有望の青年と思って養子にしたと思われているが実際にはそうでない、と述べている。また、洋行のために養子になるのは情けないと後悔し当時は非常に残念に思ったという。福澤家に入って1887年(明治20年)2月2月、横浜港よりアメリカ合衆国へと出発し、義兄の一太郎が留学中のニューヨーク州ポキプシーに翌月到着する。語学勉強の傍ら実業学校に通い、次いでボストン近郊の語学学校へ通う。滞米2年目の1888年(明治21年)1月からはフィラデルフィアに移り、当時アメリカ最大の鉄道会社であったペンシルバニア鉄道に事務見習いとして入った。その後は同社にあってその鉄道網を乗り潰し、語学勉強を除いては留学というより修学旅行のようであったという。留学の予定は1890年(明治23年)までであったが、結局大学の学位を取ることなく予定を早めて帰国することとなり、1889年(明治22年)11月15日横浜港に帰着した。帰国後の12月に房と結婚し、同月23日には戸籍上の分家の手続きを済ませた。桃介が帰国する直前の1889年11月、北海道炭礦鉄道(後の北海道炭礦汽船、通称「北炭」)が設立された。設立の中心となったのは堀基で、福澤諭吉も設立に助力していた。この北炭に、諭吉の口添えもあって桃介は1889年12月31日に入社する。しばらく東京にて鉄道の事務見習いをした後、1890年4月北海道へ赴任し、夫婦で札幌市へと移り住んだ。北海道での生活は長くなく、最初の冬を前に房が長男駒吉(1891年1月誕生)を妊娠したので10月に夫婦そろって東京へ戻る。北海道では運輸の仕事に従事していたが、東京に戻った丁度その頃、北炭では東京に支店を構えてシンガポールなどへと石炭を輸出することになったため、外国語ができるということで桃介は東京に転任、石炭販売担当に転じた。こうして東京にて石炭販売の主任となった桃介は、名古屋にて愛知石炭商会を経営していた下出民義らと取引をするようになった。1893年(明治26年)4月上旬、北炭社内の大改革により免職となるが、その後再入社した。免職の経緯は井上角五郎によると、更迭された初代社長の堀基に代わって高島嘉右衛門が社長となったが、高島は経営に易断(高島易断)を持ち込み、社員の免職もこれで判断していたところ、易で桃介は免職と出たため実際に免職されたのだという。同年5月、井上が北炭に理事として入る(後に専務取締役)。再入社した桃介は井上の下で重役付きとなり、社内改革に従事した。北炭に勤めていた1894年(明治27年)夏、会社が石炭運搬のため購入した船舶の検査を横浜で行っていた際、そこで喀血してしまう。結核と診察され、諭吉が関与していた北里柴三郎の病院「養生園」に入院することとなった。入院生活中、薬の飲みすぎで胃腸を悪くし衰弱したので、やがて大磯(神奈川県)へと移り、東京の忙しい生活を離れて静養するばかりの日々を過ごした。結核を患い静養を余儀なくされたことが桃介が株式投資を始める契機であった。自身が後に語るところによれば、養家の世話になってもよい家族の分は別として、自分の生活費が尽きてしまうのが心配であった上に、日々退屈であったので、病床でも何かできることはないかと考えて株式投資を思い立ったという。これまで倹約していた上に三田の諭吉本邸に附属する家に住んでおり家賃がなかったことから当時すでに3,000円の貯金があり、ここから1,000円を割き資本として投資を始めた。当時は日清戦争が終戦を迎える頃で、初心者でも買えば必ず利益があがる時期であった。1年ほど経って健康を回復したので仕事に復帰しようと思い立ち、1895年(明治28年)12月、仲買に命じて買い玉の大阪鉄道株を清算してみると、約10万円の利益が手元に残った。1年間で10万円を稼いだということで勢いづいたためその後も株式投資を続けたが、1896年(明治29年)の春より相場は下落、秋には暴落してしまい先の利益の半分を失った。その後は相場を辞め、国内の温泉・海水浴場をほとんど巡るなど旅行ばかりの日々を送る。北炭に残る井上角五郎に随行して上海や香港へ出向いたこともあった。その間の1898年(明治31年)9月、遊んでばかりいるのを心配した親戚の中上川彦次郎が王子製紙へ桃介を取締役として入れたが、折り合いが合わず長続きしなかった。1899年(明治32年)、健康が回復したということで独立した商売人を志して貿易商「丸三商会」を旗揚げした。本店を東京の三十間堀に構え、北海道から鉄道の枕木を中国北部へ輸出するということで小樽と神戸に支店を配し、後に中国大連にも支店を設けるという陣容であった。このうち神戸支店には、懇意であった慶應義塾の後輩松永安左エ門を日本銀行から引き抜いて登用している。また、商会の支配人は慶應義塾元幹事の益田という人物で、松永曰く、桃介が諭吉のへそくりをいくらか借りたので商会の財務監督に送り込まれたらしいという。丸三商会では中上川が経営し他に友人も多数在籍する三井銀行と金融の取引をしていた。しかし途中で方針が変わった模様で融資を断るようになる。同時期、慶應義塾の先輩である森下岩楠が経営する東京興信所が、丸三商会の取引先からの問い合わせに対し福澤桃介の信用は絶無、資産は僅少である旨を報告した。取引先が離れ、融資も断られた丸三商会は行き詰ってしまう。諭吉にも「眼玉の飛出るほど」叱られる始末であった。この失敗で興奮したためか病気が再発し、神戸に出張する途中で倒れて京都の同志社病院に一時期入院した。この件で桃介は自分をいじめた者には強く当たろうと決心し、慶應義塾は敵であるとすら考えたという。また、松永が神戸から病院に急行すると、桃介は福澤家の養子を今日限りで止めて旧の岩崎姓に戻ると言って聞かなかったとのことである。帰京すると三田の旧宅に留まるのが面白くないということで大森の田圃の中にあった一軒家を借り、静養も兼ねて謹慎の日々を送る。そうしているうちに、1901年(明治34年)2月3日、義父の福澤諭吉が死去した。この5か月後の同年7月、北炭の常務・井上角五郎に誘われて同社に復帰し、元の重役付として勤め始めた。以後1906年(明治39年)10月に辞職してサラリーマン生活を終えるまで長く在籍している。この間、北炭の外債発行に関係した。三度北炭に復帰した後は、株式投資は小遣いをとる程度には続けていたが、当時勃発した日露戦争では先の日清戦争と異なり日本は賠償金を獲得できず、このことからかつてのように景気が良くなることはない、との説が一般的であったので、身を入れて株を買うということはなかった。しかし終戦翌年の1906年(明治39年)春頃から相場が高騰し始めると、桃介も本格的に株式投資に乗り出した。9月ごろに一部を除いて手仕舞いするが、まだ相場が騰貴するので、大株主の雨宮敬次郎や田中平八が売り出した北炭株を買い始める。一時期は会社の乗っ取りも企てたが、株価の高騰であまりにも利益が上がるので12月から売り始め、まだ高騰を続ける中で売り繋いだ。日露戦争後の株式投機で利益を挙げた桃介は「成金」の一人に数えられた。株式屋仲間の噂では、桃介はこの時期、仲買人の富倉林蔵・島徳蔵、相場師鈴木久五郎に次ぐ金額である350万円の巨利を得ているとのことであった。1907年(明治40年)1月半ばの株価暴落に際しては手元に若干の宝田石油株が残っており含み損を抱えたが、3月に増資ということで株価が一時高騰したので、このときに売り切って利益を得た。以後株式投資を止めて旅行へ出かける。足を洗った桃介に対し、3・4月の安値を見て買いに回った鈴木久五郎は没落してしまう。一躍成金となった桃介は、優良会社の株式が軒並み高騰している中で株式を新たに買うのは困難であるから、新会社を設立して将来に期待しようという考えから、岩崎清七と紡績会社の設立を目論む。1907年1月、資本金1,000万円で日清紡績株式会社が発足すると、初代専務取締役に就任した。専務には佐久間福太郎も就任したが、佐久間とは紡績工場の近くの亀戸にて資本金20万円の東武銀行を共同経営する。しかし佐久間系の幹部が不正事件を起したことで桃介は佐久間と対立し、このこともあって1910年(明治43年)までに持株の大半を手放した上で常務取締役を辞任して日清紡績から撤退した。紡績業の他にも、岩崎や根津嘉一郎・馬越恭平とともに肥料会社の設立に参加する。この帝国肥料株式会社は資本金300万円をもって1906年10月に設立され、横浜で肥料工場の建設に取り掛かるが、1908年(明治41年)8月業界大手の大日本人造肥料(現・日産化学工業)に合併された。また、根津とは半田(愛知県)にあった「カブトビール」を共同で買収するが、根津と意見が合わず持株を売却し撤退した。この時期には、瀬戸鉱山株式会社を設立し岡山県にて銅山を経営し、北海道では北炭の元社長堀基から農場を譲け受けて農場経営にも手を広げた。銅山経営は以後8年間採掘を試みるものの上手くいかず藤田組に売却し撤収したが、農場経営は軌道に乗りその後も長く続いた。紡績・肥料・ビール・鉱山・農場など様々な事業に投資した桃介は、電気事業にも投資を始めていた。九州では1906年11月、佐賀県にて水力発電を計画する広滝水力電気株式会社の設立に際して大株主となる。また、福岡にて先に松永安左エ門らと出願していた市内での路面電車敷設の特許が1908年12月に下りると、1909年(明治42年)8月大株主となって福博電気軌道株式会社を設立、自ら社長に就任した。東海地方では豊橋市(愛知県)の電力会社豊橋電気にまず関与した。同社は事業拡大のため1907年に資本金を15万円から50万円に拡大していたが、増資への応募が少なく地元以外からも出資者を募っていた。桃介は創業者で社長の三浦碧水の勧めで1908年より出資して筆頭株主となり、翌1909年には社長に就任(1912年まで)して経営改革にあたった。次いで東海地方では、豊橋電気よりも規模が大きい名古屋市の電力会社、名古屋電灯の買収に着手する。買収は1909年3月に始まり、翌1910年(明治43年)6月末までに1万株を持つ筆頭株主となる至る。それと同時に会社内での地位が向上し、顧問を皮切りに相談役、取締役と昇進して1910年5月には常務取締役に選出された。名古屋電灯の後も電気事業への進出は続き、1911年(明治44年)、島根県の浜田電気、千葉県の野田電気の社長に相次ぎ就任。また、四国・徳島県にて祖谷川開発を計画する四国水力電気(旧・讃岐電気)の経営陣に依頼され、同年3月同社社長に就いた。翌年にも長崎県佐世保市の佐世保電気の社長となっている。このように電気事業に積極的となったのは、電気事業を確実に利益の見込める事業であると認めたためで、全国各所に手を広げたのは趣味の旅行も兼ねて事業ができるためであるという。同時期には電気事業以外にもガス事業にも注力する。1910年4月、日本瓦斯株式会社(資本金200万円)が発足するとその社長に就任。国内各地にて計画されつつあったガス事業を統括、経営することを目指した。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙に立候補して当選し、衆議院議員となった。当選はこの1回のみで、1914年(大正3年)12月に第2次大隈内閣によって解散が行われるまでの1期務めただけである。当時45歳、立憲政友会公認で、特段深い縁故のない千葉県郡部から出馬してトップ当選を果たした。議員生活を始めて半年ほどの1912年12月、第2次西園寺内閣に代わって第3次桂内閣が成立すると、にわかに憲政擁護運動が盛り上がった。運動の火種である交詢社のメンバーであったので、桃介も運動に参加している。翌1913年(大正2年)2月、尾崎行雄・岡崎邦輔や交詢社のメンバーとともに政友会を離党し、小会派「政友倶楽部」を組織してそれに加わった。政友倶楽部では実業家ということで会派を代表して予算委員会理事となり、3月には本会議にて演説した。政友倶楽部を組織してしばらくすると、岡崎は政友会に復帰、尾崎らは中正会を組織するなど政友倶楽部はバラバラになる。その中で桃介は孤立して無所属となった。可愛がられていた政友会の松田正久に「君は政治に適さない」と言われ、結局その通りに議員生活は間もなく終わった。その後1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に再び立憲政友会公認で、今度は岐阜県の選挙区から立候補する話が出たが、結局立候補を取りやめている。1910年に名古屋電灯常務となったものの短期間で一旦辞任していたが、同社の経営悪化により不満を持つ株主の中で、豊橋電気の再建や九州での実績からその手腕を期待して取締役に留まる福澤桃介に経営を一任すべしという意見が起るようになる。そして1913年(大正2年)1月、桃介は常務取締役に復帰し、経営改革に着手する。同年9月には社長代理に指名され、1914年(大正3年)12月には社長に選出された。名古屋電灯に入った桃介が主として手がけた事業は、中部地方を流れる木曽川の開発であった。松永安左エ門によると、桃介は「俺は木曽川で電力を起し、天下の水力王になるよ」と豪語していたという。桃介の木曽川開発は後年、「電気事業者としての福澤桃介氏は、木曽川を離れて福澤氏無く、福澤氏を離れて木曽川の開発無し」(『大同電力株式会社沿革史』)と評されている。桃介がまだ社長代理であった1914年初頭、まず名古屋電灯社内に臨時建設部が設置された。同部はすでに完成していた八百津発電所よりも上流側における木曽川の電源開発を主たる任務とし、水利権を確保済みの地点における設計変更や新水利権の出願などに着手する。開発を実行に移すには、従来から木曽川を用いていた木曽御料林の木材輸送が電源開発によって不可能になるので、御料林を管理する帝室林野管理局との交渉が必要であった。桃介は御料林問題につき逓信大臣を務めた経験がある後藤新平に協力を求めてその助力を得、また、後藤の秘書官であった増田次郎を交渉役として推薦された。御料林問題が解決し木曽川開発の見込みが立つと、名古屋電灯では電力の消化策として電気製鉄事業に着目し、電源開発部門と合わせて独立させ、1918年(大正7年)9月木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立。新会社の木曽電気製鉄が木曽川や矢作川での電源開発を手がけ、その親会社の名古屋電灯は配電事業に特化するという体制とし、桃介は両社の社長を兼任した。翌1919年(大正8年)、木曽電気興業の手によって、八百津発電所に続く木曽川の発電所として賤母(しずも)発電所(長野県)が完成、続いて同社は大桑発電所(同)の建設にも取り掛かった。名古屋電灯の活動の一方で、他の地域での活動は漸次縮小した。社長であった佐世保電気は1912年11月九州電灯鉄道へ合併。野田電気社長は1916年(大正5年)8月辞任、同年10月には浜田電気社長も辞任した。さらに四国水力電気社長も1917年(大正6年)6月に退いている。反対に名古屋では、名古屋電灯以外にも、愛知電気鉄道の常務藍川清成に要請されて1914年8月同社社長に就任し、1917年6月に退任するまで同社の経営再建に助力する。電力を利用する産業の企業にも取り組み、1916年8月名古屋電灯系列として電気製鋼所を設立して翌1917年9月より自ら社長を務め、1918年には電源開発用のセメント製造を目的に名古屋セメントを設立して社長となった。さらに1919年9月、友人の三輪市太郎が持ち込んできた名古屋から豊橋へと至る電気鉄道の敷設計画に参加し、安田善次郎の金融面での後援を取り付けて資本金1,000万円の東海道電気鉄道を設立、ここでも自ら社長に就任した。同社は東京・大阪間の電気鉄道敷設も視野に入れていたが、安田の死去で頓挫して1922年(大正11年)7月に愛知電気鉄道へと吸収されている。1919年11月、木曽電気興業と大阪の京阪電気鉄道の提携により、大阪送電株式会社が設立された。社長は福澤桃介で、第一次世界大戦による好景気で電力不足に陥る関西地方へ木曽川で開発する電力を送電することを目的とした。翌1920年(大正9年)には、同じく関西方面への送電を目的とする山本条太郎率いる日本水力との合併案をまとめ、10月に大阪送電・木曽電気興業・日本水力の3社の合併を決定。そして翌1921年(大正10年)2月、3社の合併が成立し資本金1億円の新会社大同電力株式会社が発足するに至った。初代社長は福澤桃介である。一方、木曽電気興業の母体である名古屋電灯は、複数の会社と合併して1921年10月に関西電気株式会社(翌年東邦電力に改称)となるが、同年12月、1914年以来務めてきた社長を退いている。大同電力発足後も引き続き木曽川開発は進められ、1921年大桑発電所が運転を開始。1922年(大正11年)には須原発電所(長野県)が完成し、翌年には桃山発電所(同)と、4万700キロワットと当時日本最大の読書(よみかき)発電所も竣工した。関西地方への送電線建設もあわせて進められ、1922年、大阪市郊外に変電所を設置して関西への送電を開始している。さらに1922年7月、大同電力は日本で初めての本格的ダム式発電所となる大井発電所(大井ダム、岐阜県)の建設に着手する。この大井発電所は、計画当初の段階では従来の発電所と同じ水路式発電所の予定であったが、河川の落差が少ないためダム式発電所とするのが有利とされたため変更された。桃介自身が語るところによれば、日本では前例がなく早過ぎる、アメリカで研究ができてから始めた方が安全だという議論があったが、偉いものを造ろうという野心に燃えたためダム建設に着手することになったという。ところが建設中の1923年9月、関東大震災が発生し、金融逼迫が生じて資金の調達が困難になってしまう。12月には国内金融機関からの融資が不調に終わったが、その後アメリカのとの間で米ドル建て社債、すなわち外債の発行についての話が纏まり、1,500万ドル募集の仮契約調印まで漕ぎ着けた。桃介は秘書らを引き連れ、外債発行交渉のため1924年(大正13年)5月13日横浜港を出向、31日にニューヨークへ到着した。出発前、交渉が失敗に終われば工事資金が調達できなくなり工事中断もありうるので、その場合は責任を負って日本には帰らずスイスへ移住する覚悟であると語っていたという。困難な交渉の末、同年7月18日に本契約の調印が終わり、全米に大同電力社債の売り出しが発表された。売り出しを見届けて桃介一行は2か月を過ごしたニューヨークを引き上げ、8月23日に帰国した。滞米中の6月、水力開発に関する学識経験と慶應義塾大学に対する寄付などの教育への貢献を称え、ユニオン大学から理学博士 (Doctor of Science) の学位が贈られている。大井発電所は帰国後の1924年12月に完成。出力4万2,900キロワットで、読書発電所を抜いて当時日本最大の発電所であった。1926年(大正15年)4月、大倉喜八郎の退任に伴い帝国劇場株式会社の会長に就任した。桃介は同社の設立時(1907年)から関与しており、義兄福澤捨次郎が発起人の一人であった関係から設立に参加して株主となっていた。その会長となり、「電気王」などと言われ独立して仕事ができるようになっていたのでこの際東京の社交界を取り仕切ってみようと考えたというが、同年6月、東京海上ビルにて脳貧血を起して倒れた。8月には復帰するが、翌1927年(昭和2年)7月には腎臓摘出手術を受けた。1928年(昭和3年)3月、帝国劇場会長を辞任。6月6日には実業界引退を宣言し、9日大同電力のほか同社系列の天竜川電力・北恵那鉄道および豊国セメントの社長から退いた。当時61歳であった。1932年(昭和7年)には家督を長男駒吉に譲り、妻の房とともに隠居している。1937年(昭和12年)2月15日、東京渋谷の本邸にて死去。満69歳没。死因は脳塞栓であった。築地本願寺にて葬儀が行われ、多摩霊園に葬られた。日露戦争後の株価高騰で一躍成金となった桃介は、1906年頃より岩崎清七と紡績会社の設立を目論む。優良会社の株式が軒並み高騰している中で株式を新たに買うのは困難であるから、新会社を設立して将来に期待しようという投機者流の考えからであったという。桃介らの動きに先立ち、日比谷平左衛門が営む東京の有力綿糸商「日比谷商店」の番頭佐久間福太郎らも紡績会社設立に動き始めており、桃介や岩崎・佐久間らは繊維業界の重鎮でもあった日比谷平左衛門の助力を取り付けて会社設立に踏み切ることとなった。1906年11月、最初の発起人会を開き、次いで創立委員会を開催する。新会社の資本金は1,000万円で、株式は一般募集ではなく発起人の紹介によって申し込んだ者に割り当てる縁故募集の形としたが、新会社の前評判が良く、申し込みが殺到して割当の応募は株式総数の約10倍に上った。翌1907年(明治40年)1月26日、新会社日清紡績株式会社が創立総会を開いて発足するに至る。横浜の資産家平沼専蔵や佐久間福太郎、福澤桃介、岩崎清七らが取締役に選任され、その中で平沼が初代会長、佐久間・桃介の両名が初代専務取締役に互選された。設立から1年余りが経過した1908年(明治41年)6月より工場の一部操業を開始し、翌1909年(明治42年)5月からは全面操業を始めて開業式を挙行している。桃介は専務であるとともに、一時期は1万株を持つ同社の筆頭株主であったが、工場の操業開始から1年余りで持ち株の大半を手放し、1910年(明治43年)4月2日の臨時株主総会にて専務取締役を辞任した。取締役であった岩崎清七によれば、桃介の日清紡績撤退は会社の前途を悲観したためという。また、専務の佐久間盛太郎と別会社の経営をめぐり対立したことも原因であったといわれる。日清紡績について、桃介は株を早期に売却して利益を得ようと考えたが、相場師と言われるのが嫌になって真面目な実業家と思われたいがために思いとどまったことがあったと後に自著で述べているが、結局株式を売却して退くこととなった。1906年11月4日、実業家の中野致明・牟田万次郎・伊丹弥太郎らにより広滝水力電気株式会社という電力会社が設立され、筑後川水系城原川(佐賀県)での水力発電を計画した。同社設立の際、桃介は福岡の太田清蔵から株の引き受けを依頼され、資本金30万円総株数6,000株のうち1,500株を持つこととなった。同社は1908年10月に設備が完成して佐賀市などへの供給を開始、後に久留米などへも供給を広げた。同じ九州の福岡市では、先に松永安左エ門らと出願していた市内での路面電車敷設の特許が1908年12月に下りた。しかしいざ設立という段階になると不況ということもあり株式の引き受けを渋るが、松永に押され2,000株の引き受けを決めた。かくして1909年(明治42年)8月31日、資本金60万円(総株数1万2,000株)にて福博電気軌道株式会社が発足。桃介が取締役社長、松永が専務取締役となり直ちに着工、翌1910年(明治43年)3月に開業させた。なお福博電気軌道設立にあたり、三菱財閥の岩崎久弥が後援となって2,000株を引き受けていた。桃介は自著『桃介は斯くの如し』(1913年)の中で、相場師や虚業家などと言われて世間から排斥されている最中であったにも関らず岩崎久弥(同書中では「東京の或る富豪」となっている)に助力して貰えたことを今でも感謝していると述べている。1910年9月5日、川上川(嘉瀬川)の開発を目的に九州電気株式会社が発足し、広滝水力電気を吸収する。桃介は初代社長に就任し、後に松永が常務取締役となった。翌1911年(明治44年)10月、福博電気軌道が博多電灯に合併され博多電灯軌道となるが、社長には博多電灯の山口恒太郎が続投、松永が専務取締役に選出されたものの桃介は相談役に退いた。九州電気は水力発電専門、博多電灯軌道は火力発電専門であったが、両社を合併して水力発電に重点を置いた方が有利であるとの考えから1912年(明治45年)6月両社の合併が成立。存続会社の博多電灯軌道は九州電灯鉄道株式会社へと社名を変更した。資本金は485万円で、社長に伊丹弥太郎、常務取締役に松永安左エ門らが就任、桃介は相談役に留まった。このように九州の事業は最終的に九州電灯鉄道へと発展したが、この事業の成功は大概松永安左エ門によるもので、桃介自身は「我れ関せず焉」で、時々顔を出しに九州へ行った程度であると述べている。日露戦争後の株式相場で財を成し各方面に投資を広げていた桃介は、1907年、ヨーロッパにて水力発電所からの長距離送電が成功したことを知り、名古屋の友人下出民義に名古屋周辺に水力発電に有利な場所があるならば調査して欲しいという手紙を出していた。これに対して下出は、名古屋の電力会社名古屋電灯への投資を勧めた。この時は下出の誘いを受けなかったものの、同社の経営事情を検査したことのある慶應義塾の先輩矢田績(当時三井銀行名古屋支店長)が訪れ、検査書類を見せて名古屋電灯を経営しないかと誘うと、最終的に桃介は同社への投資を決定。1909年2月自ら名古屋へと赴き、下出・矢田と会って株の買収や支払い方法を打ち合わせた。同年3月、名古屋電灯の株主名簿に福澤桃介の名が初めて登場。6月末までに5千株余りを買収し、さらに翌1910年6月末には1万株を持つ筆頭株主となった。下出によれば買収資金の出所は三菱銀行であったという。桃介の進出に対し名古屋電灯側は1909年7月、矢田の仲介で桃介を顧問とし、同年10月には相談役のポストを新設して迎えた。さらに翌1910年1月には株主総会にて取締役に選出、同年5月には常務取締役に互選され同社の経営に深く関与する立場となった(当時社長は空席、常務は創業者の三浦恵民も在任)。名古屋電灯に乗り込むと、桃介は有力な競合会社名古屋電力の合併を画策する。この名古屋電力は1906年名古屋や東京の資本家らにより設立、名古屋財界の奥田正香が社長を務め、渋沢栄一ら東京の大物実業家も関与する新興の電力会社で、木曽川開発を手がけて岐阜県にて八百津発電所を建設中であった。下出や矢田に斡旋を頼みつつ7月には桃介自身が2週間名古屋に滞在して合併反対派の翻意に努め、8月株主総会にて合併を決定。10月28日付で合併が成立するに至り、名古屋電灯は資本金775万円の電力会社となった。なお合併後の11月、名古屋電力から取締役となった兼松煕に常務を譲り、桃介は取締役に下がっている。名古屋電灯ではその後、先に名古屋電力が着工していた八百津発電所が1911年(明治44年)10月に完成。供給の拡大に要する費用を調達するため完成に先立つ同年4月、資本金を1,600万円とした。これらの組織拡大により社長職を置くことになり、名古屋市長在任中の加藤重三郎を招致、加藤は市長辞職の上で7月社長に就任した。しかし工事費の負担と余剰電力が重荷となり、1912年以降同社の業績は悪化してしまう。経営が悪化するにつれて株主の不満が高まって経営を刷新すべきという声が大きくなり、やがて豊橋電気の再建や九州での実績からその手腕を期待して取締役の福澤桃介に経営を一任すべしという意見が強くなっていった。現経営陣への批判が強くなった結果、常務の三浦恵民・兼松煕は1912年6月に辞任。12月には取締役・監査役全員が一斉辞任し、総改選を行うこととなった。新役員の選任は桃介に一任され、自身の他加藤重三郎や下出民義らを取締役に指名。翌1913年(大正2年)1月には、社長に留まる加藤の下で桃介は常務取締役に復帰した。常務に就くと九州電灯鉄道支配人であった角田正喬を引き抜き名古屋電灯支配人に任命し、経営改革を進めた。名古屋電灯にて活動を再開しつつあった1913年秋、社長の加藤重三郎らが遊廓移転にからむ疑獄事件で起訴された。加藤らは1913年12月第一審で有罪となった後翌1914年(大正3年)の第二審で結局無罪となったが、その間、名古屋電灯では社務を執れなくなった加藤に代わって1913年9月に桃介を社長代理に指名。さらに同年12月加藤が取締役社長を辞任すると、翌1914年12月桃介を後任社長に選出した。桃介の社長就任とともに下出も常務取締役に昇格し、1918年(大正7年)2月に副社長のポストが新設されると副社長に就任している。経営を掌握した桃介は、名古屋電灯の従来の保守的な経営方針を一変させて積極的な需要な需要創出に取り組み、販売キャンペーンや料金の引き下げによって販路の拡大を目指した。一方で自ら出資者となり名古屋周辺にて新たに産業を起業する、という需要創出活動も行った。その一例が電気製鋼所(特殊鋼メーカー大同特殊鋼の前身の一つ)である。電気製鋼所は名古屋電灯社内に設置された製鋼部を前身とする。桃介の命により余剰電力の消化策を検討していた顧問の寒川恒貞の提案により、1914年12月、名古屋電灯は電気製鋼事業の兼営を決定し、フェロアロイ(合金鉄)や特殊鋼の生産を始めることとなった。翌1915年(大正4年)より試験生産を始め、10月に製鋼部を設置。1916年(大正5年)8月には工場の操業開始とともに製鋼部が独立して株式会社電気製鋼所が発足した。同社の初代社長には下出民義が就いたが、1917年(大正6年)9月からは桃介が兼任している。また、1914年の初め、八百津発電所より上流側における木曽川開発に向けて調査を担当する部署として、名古屋電灯社内に臨時建設部が設置された。その後1916年2月に至り臨時建設部は組織が拡充され、木曽川の賤母(しずも)発電所と矢作川の串原仮発電所の建設にまず着手する。並行して木曽川の水利権を確保すべく運動し、折りしも第1次世界大戦中のため製鉄事業が国家的課題となっていたので電気で銑鉄を製造するという電気製鉄事業に着目し、木曽川開発による発生電力の受け皿として同事業を企画し始める。1917年(大正6年)6月、名古屋電灯社内に製鉄部が設置され、電気製鉄の試験を開始。この製鉄部と臨時建設部を新会社に移して新会社にて電源開発と電力の卸売りおよび製鉄事業を行い、名古屋電灯は配電事業に特化する、という方針が採られたため、翌1918年(大正7年)9月8日、新会社木曽電気製鉄株式会社(資本金1,700万円)が発足。桃介は同社の社長に就任した。配電専業となった名古屋電灯はその後、1920年(大正9年)に一宮電気を合併したのを皮切りに、岐阜電気、豊橋電気(桃介が社長を兼任)など愛知・岐阜両県の計6社を相次いで合併し、1921年(大正10年)8月には資本金4,848万円の電力会社に発展した。同年4月には、さらに奈良県の関西水力電気との合併を決定する。しかしこの頃、水力開発に必要な事業資金獲得のために高配当策を採った(1921年上期は年率20%の配当を行った)ことなどが原因となり、名古屋電灯は会社の経理が行き詰まりつつあった。名古屋における福澤桃介の事業については、「福澤氏が日本における財界の巨額として自他共に許す様になったのは愛知県下における同氏経営の事業が漸次発展するに至ったからである」(1924年)と評価されていたものの、排外的な土地ゆえに地元の名古屋財界とは折り合いが悪かったという(下記#人物評参照)。後に桃介自身も、伊藤次郎左衛門(いとう呉服店、後の松坂屋を経営)などの地元財界には東京から「山師」がやってきたと見られて好感を持たれず、小山松寿(名古屋新聞を経営)などからも攻撃された、と語っている。それゆえこんな馬鹿らしい所にいるものかと思い、大阪進出を企てたことが、大阪送電、後の大同電力を立ち上げた理由という。その大阪送電は1919年11月8日、木曽電気興業と京阪電気鉄道の提携により資本金2,000万円で設立され、桃介が初代社長となった。第一次世界大戦による好景気で電力不足に陥っていた関西地方へ木曽川で開発する電力を送電することを起業目的としたが、大阪送電設立に前後して、同様に関西地方への送電を目指す電力会社が設立されていた。一つは宇治川電気の関係者が中心となって設立した日本電力で、もう一つは山本条太郎や大阪電灯・京都電灯関係者が設立した日本水力である。3社鼎立の形になったが、翌1920年(大正9年)春に戦後恐慌が発生すると、3社のうち大阪送電と日本水力の合併話が浮上する。同年10月、木曽電気興業に大阪送電・日本水力を加えた3社の合併が決定し、翌1921年(大正10年)2月には合併が成立し資本金1億円の大同電力株式会社が発足するに至った。社長には京阪電気鉄道社長の岡崎邦輔を推す声があったが、桃介が自分でやると言って結局初代社長となった。一方、木曽電気興業の母体である名古屋電灯は、1921年10月に関西水力電気との合併が成立し、資本金約7,000万円の関西電気株式会社へと発展した。しかしこの時期、前述の経理の行き詰まりの他にも、会社の外で問題を抱えていた。以前から元社長の加藤重三郎や副社長の下出民義など、同社関係者の中には名古屋市会議員も兼ねる者がおり、このグループは「電政派」と呼ばれていた。このグループは市政掌握を狙って市長の座を狙い、1921年6月に現職市長佐藤孝三郎への不信任案を可決して自派の大喜多寅之助を市長に就任させたが、この行動が野党や市民からの強い批判を招いていたのである。関西電気成立後の1921年12月、副社長の下出とともに桃介は同社社長を辞任した。同時代の名古屋の実業家青木鎌太郎によると、桃介ら退陣したのは、市会における電政派の問題の責任をとったことも一因と見られるという。関西電気の後任社長には九州電灯鉄道にて社長を務める伊丹弥太郎が、後任副社長には同社常務取締役の松永安左エ門がそれぞれ就任。翌1922年(大正11年)5月には九州電灯鉄道との合併が成立し、同年6月に関西電気が改称する形で中京地方と九州地方を供給区域とする資本金1億円超の電力会社東邦電力株式会社が発足している。大同電力成立後も木曽川開発は進展した。木曽電気興業時代に木曽川の賤母発電所(出力1万4,700キロワット)と矢作川の串原発電所(出力6,000キロワット)が運転を開始していたが、大同電力発足後1926年(大正15年)までに以下の発電所が木曽川に建設された。発電所群以外にも大同電力は、大阪市近郊に変電所を設置して1922年7月より関西地方への送電を開始し、1923年12月には木曽から大阪まで亘長200キロメートルを超える長距離送電線を完成させた。また、1923年10月、大阪電灯が大阪市によって市営化された際には、市営化の対象から外れた残余資産を大阪電灯から買収し、関西方面における地盤を強化。翌1924年2月には、関西地方の大手電力会社である宇治川電気と供給契約を締結し、宇治川電気に15万キロワットに及ぶ大量受電を契約させることに成功した。これらの木曽川開発について、桃介自身は後年、次のように語っている。1928年(昭和3年)6月、桃介は社長を辞任し、副社長であった増田次郎が後任社長となった。以降大同電力は増田が社長として率いていくが、桃介死後の1938年(昭和13年)に「電力管理法」が成立し、翌年国策会社日本発送電が発足すると、1939年(昭和14年)4月同社に合流して解散した。また、松永安左エ門に譲っていた東邦電力(旧・名古屋電灯)も電力管理法と次いで成立した「配電統制令」により設備を日本発送電や国策配電会社へと出資し、1942年(昭和17年)4月に解散、大同と同じく姿を消した。桃介は北海道炭礦鉄道勤めを振り出しに丸三商会の旗揚げ、王子製紙入り、再度の北海道炭礦鉄道勤めを経て、事業界に入っても紡績・肥料・ビール・ガス・鉱山・農場と幅広く事業に手を出し、電気事業に参入してからも複数の企業を渡り歩いた。名古屋電灯を経営している際、同社は十五銀行系列の丁酉銀行から資金を借り入れたが、桃介は同行の経営者で親友の成瀬正恭から融資に対する個人保証を要求されたことがあった。これについて後年この理由を成瀬は次のように回想している。このような評価は他にもあり、丸三商会を旗揚げ(1899年)した際に松永安左エ門を日本銀行から引き抜いた(そもそも日本銀行入社の経緯が桃介の推薦である)が、松永が移籍のために日本銀行を辞職する際、総裁の山本達雄から、一緒に仕事をしようとしている桃介は尻の据わらぬ人だから冷静に考えるように、と引き止められたという。衆議院議員に当選(1912年)した際、新人議員紹介で新聞に以下のように紹介された。ただし正反対の評価もあり、この頃に博文館という出版社に所属していた岡本学によると、岡本が桃介の本を出版しようと話を上司に持ちかけると、当時桃介の評判は良いものではないので店の沽券に関わる、として問題にされなかったという。その後、他の出版社から『富の成功』(1911年)という著書が出版された。なお後年、大同電力社長在任中にも、評論家の湯本城川に「あんたが今日傍若無人の振舞をしても、誰れも何んとも云はぬのは、あんたが偉いのではない、死んだ諭吉翁が偉いからですぜ、高慢ちきな鼻をあんまり動かすとヘシ折られますぜ」と評されている。名古屋電灯を経営したものの、本人も自覚するように地元財界と折り合いが悪かった。名古屋財界人との関係については、と評された。一方、大阪財界とは太田光熈や島徳蔵らと大同電力を経営したが、その太田によると、桃介と組んで大阪送電を設立(1919年)した際、自身で経営する京阪電気鉄道以外にも大阪送電に参加する(大阪の)郊外電鉄があった方が有利であろうと考えたので各社の重役に声をかけたが、桃介のような者と一緒に仕事をすると今後どういう結果を招くか測り難いから十分警戒するように、と真面目に忠告してきた人物がいたという。桃介は後半生、川上音二郎(1911年死去)の未亡人で女優の川上貞奴を伴侶とし、どこへ行くにも貞奴を連れていたという。読書発電所や大井発電所の建設中、木曽の三留野(現・南木曽町)に山荘を構え、ここから現場を指揮していた。山中の不便な山荘であったが、桃介が訪れるときは必ず貞奴も同伴して滞在した。まだ大井ダムの建設中には、桃介が従業員の指揮を鼓舞するために資材牽引用の空中ケーブルで谷底へ下りるという危険な芸当を行ったことがあったが、この時同伴していた貞奴も一緒に谷底へ下りたというエピソードがある。これより先、桃介が名古屋電灯社長時代であった頃、桃介は名古屋の東二葉町に和洋折衷の邸宅(通称「二葉御殿」)を建設し、貞奴とともに暮らした。桃介が財界から引退した後も、東京永田町の桃介の別荘「桃水荘」にてともに暮らしている。上記以外で取締役や相談役として関与した企業(1914年以降)に、東海電極製造(現・東海カーボン、1918年設立、相談役)、矢作水力(1919年設立、相談役)、白山水力(同、相談役)、濃飛電気(1921年設立、相談役)、尾三電力(同、相談役)、東邦電力(関西電気から改称、旧名古屋電灯・九州電灯鉄道、1921年より相談役)、大同電気製鋼所(現・大同特殊鋼、1922年より相談役)、九州鉄道(1922年設立、取締役後相談役)、昭和電力(1926年設立、相談役)がある。

出典:wikipedia

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