日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は、栃木県日光市にある神社。式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。正式名称は「二荒山神社」であるが、宇都宮市の二荒山神社(宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して「日光二荒山神社」と称される。古くは「日光三社権現」と称された。ユネスコの世界遺産に「日光の社寺」の構成資産の1つとして登録されている。関東平野北部、栃木県北西にそびえる日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る神社である。境内は次の3ヶ所からなる。日光三山は男体山(なんたいさん:古名を「二荒山(ふたらさん)」)・女峯山(にょほうさん)・太郎山からなり、二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っている。三山のほか日光連山を境内地とし、面積は3,400haにも及び、その神域には華厳滝やいろは坂も含まれる。二荒山神社は古来より修験道の霊場として崇敬された。江戸時代になり幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産・重要文化財指定の主な社殿が造営された。また、国宝指定の刀剣2口や多数の刀剣等の重要文化財を現在に伝えているほか、境内は国の史跡「日光山内」に包括されている。社名「二荒山(ふたらさん)」の名の由来には諸説がある。なお、男体山山頂遺跡の出土品から、鎌倉時代初期には「二荒」と「日光」が併用されていたことがわかっている。主祭神は次の3柱。それぞれ日光三山の一山にあてられている。3神は「二荒山大神」と総称される。これらの山々は神体山、いわゆる神奈備であり、霊峰として古くから信仰されてきた。この日光の神々は「日光三山」「日光三所大権現」などと呼ばれ、親子の山と考えられてきた。二荒山神に現在の人格神があてられたのは12世紀頃だとされる。さらには本地垂迹説により上記のような諸仏があてられ、輪王寺では現在もこれら諸仏を祀っている。霊場としての日光の始まりは、下野国の僧・勝道上人(735年-817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に766年(天平神護2年)に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建てたことに始まるとされる。そして二荒山神社の創建は、上人が767年(神護景雲元年)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされる。この祠は現在の別宮となっている本宮神社にあたる。上人は782年(延暦元年)二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒修験の基礎を築いた。その後、神仏習合の霊場として栄えることとなったと伝えられる。なお、社伝などでは上記のように勝道上人が開祖と説明されるが、実際には太郎山神社周辺で古代の祭祀の痕跡を示す遺跡が見つかっており、相当古くから聖地として信仰対象であったことがわかっている。空海が訪れた際、女峰山の神を祀る滝尾神社を建てたと伝えられている。また、円仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。ただし、2人の来訪は史実と言えず、伝承の域は出ていない。その後、二荒山の神を本宮神社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀った。このとき新たに建てた現在の本社、元の本宮神社、そして滝尾神社は総称して「日光三社」と呼ばれる。平安時代には836年(承和3年)の正五位下勲四等に始まって869年(貞観11年)の正二位勲四等の神階奉授の記録があるほか、『延喜式神名帳』に記載されている名神大社「下野国河内郡 二荒山神社」の記載がある。ただし、この論社には宇都宮市の宇都宮二荒山神社もあり、帰属を巡っては古くから議論がある(詳細は「二荒山神社」参照)。また、両社とも下野国一宮を称している。鎌倉時代初期には、男体山山頂遺跡の出土品から山岳信仰が最盛期を迎えたことが示唆されており、神社祭礼もこの時に確立されたと考えられる。戦国時代には、後北条氏に加担したことにより豊臣秀吉に領地を没収され、衰退した。江戸時代初め、徳川家康の側近で日光山貫主となっていた天台宗の僧天海(慈眼大師)により、徳川家康を祀る東照社(日光東照宮)が江戸幕府によって創建されると、二荒山神社もまた、江戸幕府のみならず朝廷や諸大名、さらに民衆からも厚い崇敬を受けた。1619年(元和5年)には、徳川秀忠によって本殿が再建された。1873年(明治6年)に宇都宮の二荒山神社に加えて国幣中社に追加列格した。第二次世界大戦後、神社本庁の別表神社となった。〈〉内は関連事項江戸時代までは、神領約70郷という広大な社地を有していた。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400haという、伊勢神宮に次ぐ面積を有している。日光東照宮の西奥に鎮座し、「日光山内(さんない)」と呼ばれる日光の社寺のうちでは最奥に位置する。元は現在の別宮・本宮神社の地に鎮座しており、移転後は「新宮」と称された。1617年(元和3年)の東照宮造営の際に現在地に移転し、社殿も一新された。現在の社殿はその時の造営のもので、八棟造の本殿や入母屋造の拝殿を始めとして11棟が国の重要文化財に指定されている(神橋含む)。神苑内にある正応5年(1292年)銘の銅灯籠(国の重要文化財)は、「化灯籠(ばけどうろう)」と通称される。火を灯すと怪しげな姿に化けたといわれ、武士が刀で斬りつけた傷が無数に残されている。中宮祠は、男体山中腹の中禅寺湖畔に鎮座する。「中宮祠」とは、本社と奥宮との「中間の祠」の意である。勝道上人による782年(天応2年)の男体山登頂ののち、784年(延暦3年)に建立されたという。この時、同時に中禅寺も二荒山神社の神宮寺として創建された。古くは「男体中宮」「男体権現」「中禅寺権現」とも称された。棟札の写しによれば、1096年(永長元年)、1155年(久寿2年)、1161年(永暦2年)の社殿造営が確認されている。その後、現在の社殿が1699年(元禄12年)に造営された。当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置している。入り口の登拝門は開山時(5月5日-10月25日)のみ門が開く。7月31日-8月8日の登拝祭の間は、中宮祠本殿から奥宮に神像が遷される。境内は本殿を始めとして7棟が国の重要文化財に指定されている。また男体山の登拝口の近くにある巨大なイチイ(A株とB株の2本)のうち、A株の樹齢は推定1,100年、B株の樹齢は推定1,000年とされ、昭和44年(1969年)10月11日にA株・B株ともに「中宮祠のイチイ」として栃木県指定天然記念物に指定されている。そのほか宝物館では、二荒山神社が所有する刀剣等の多くの宝物を展示している。男体山山頂に鎮座する。勝道上人により782年(天応2年)に創建された。奥宮近くの太郎山神社付近からは奈良時代から近世に至る祭祀遺物が出土し、一帯は「男体山頂遺跡」と言われる。出土品の多数は重要文化財に指定されており、中宮祠宝物館にて保管されている。別宮の2社は、本社とともに「日光三社」と称され、かつては「日光三社権現」とも総称されていた。参道の日光山内への入り口には、大谷川(だいやがわ)に架かる神橋(しんきょう)がある。この神橋は「日本三奇橋」の1つに数えられる。古くは「山菅の蛇橋(やますげのじゃばし)」、または単に「山菅橋」・「蛇橋」とも称された。「乳の木」と呼ばれる大木を両岸の土中・岩盤中に埋め込み、両岸から斜め上向きに突き出す。そしてこの両端に橋桁を渡して橋としている。この工法は、現存する重要文化財指定の木造橋8基の中でも唯一である。江戸時代以前は山梨県大月市の猿橋のように、橋脚を持たない刎橋の構造であったとされるが、以後は似た構造ながらも「乳の木」は石造の橋脚で支えられている。刎橋と桁橋を組み合わせた当時としては先端的な手法であり、城郭建築等に伴う土木技術の発達が背景にある。奈良時代末、勝道上人の日光開山に際して、深砂大王が2匹の大蛇をして橋となし、その上に菅が生じたとされる。橋の異称はこの伝承による。また、この伝承からこの頃に創建されたと考えられているが、詳しくはわかっていない。室町時代の旅行記『回国雑記』や『東路の津登』に記載があり、当時には認知されていた橋であり、構造は刎橋であったと考えられている。東照宮造営と同時に架け替えられ、それ以前の刎橋の構造から、現在の石造橋脚を有する構造となった(当時は素木造)。これ以後一般の通行は禁じられ、架け替えの際に下流側に設けられていた仮橋を一般の橋「日光橋」とした。以後10年-20年の周期で修復等が行われ、寛政4年(1792年)以後は塗装がなされるようになった。1902年(明治35年)の足尾台風による洪水で流失したため、現在の橋は1904年(明治37年)の再建。1944年(昭和19年)に国の重要文化財に指定された。(指定年月日注記のないものは昭和19年9月5日指定)上記のうち、本社本殿と拝殿の2棟は明治41年(1908年)8月1日、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定。昭和19年(1944年)9月5日に本社唐門・掖門・透塀・鳥居、神橋、別宮滝尾神社(7棟)、別宮本宮神社本殿・唐門・透塀、中宮祠(7棟)の計22棟が追加指定された。神輿舎、大国殿、末社朋友神社本殿、末社日枝神社本殿、別宮本宮神社拝殿、別宮本宮神社鳥居の6棟は昭和48年(1973年)6月2日、既指定の24棟とは別件で重要文化財に指定された。所在地付属施設交通アクセス
出典:wikipedia
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