牧氏事件(まきしじけん)は、鎌倉時代初期の元久2年(1205年)閏7月に起こった鎌倉幕府の政変。牧氏の変ともいわれる。正治元年(1199年)に頼朝が死去した後、後継者の源頼家は、若年の上に北条氏や梶原氏など頼朝が重用した御家人を遠ざけて、新たに自分の側近グループで政権を運営しようとした。そこで、幕府内において将軍の独裁権力を抑制するために、有力御家人による合議制が整えられた(十三人の合議制)。これは言わば、将軍が有名無実化し、御家人による権力争いが始まる契機となった。このような中で頼朝の妻・北条政子の実父である北条時政は、有力御家人である梶原景時や頼家の外戚である比企能員一族を滅ぼして、北条氏の地位を一段と高めてゆく。そして遂には頼家も廃して弟の源実朝を新将軍として擁立し、自らは執権となる。そして、頼家を後に殺害した。さて、この時政には後妻に牧の方という女性がいたが、頼朝死後における時政の謀略の大半は、この牧の方という女性が全て考え出したものとまで言われている。彼女は権勢欲が人一倍強かった。梶原氏、比企氏と有力御家人を滅ぼした北条時政の次の標的は、武蔵国に大勢力を誇る畠山重忠であった。この重忠はもとは平清盛の家臣で、頼朝挙兵時には平家について三浦義明を討つなどして頼朝を追い詰めたこともあるが、後に頼朝に降伏して、源義仲追討や一ノ谷の戦い、奥州藤原氏との戦い、比企氏追討などで武功を挙げており、性格も剛直であったことから人望もあり、時政にとって最も邪魔な存在となっていた。そんな中、重忠の子・畠山重保が時政と牧の方の娘婿である平賀朝雅と対立することとなる。元久2年(1205年)、この重保と朝雅の対立を契機として、時政は畠山氏の討滅を計画する。このとき、時政の息子である北条義時は、重忠とは友人関係にあり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱く(『吾妻鏡』)。しかし、父の命令に逆らえず、武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼした。しかし、人望のあった重忠を強攻策をもって殺したことは、時政と牧の方に対する反感を惹起することになった(畠山重忠の乱)。同年閏7月、時政と牧の方は、実朝を廃して平賀朝雅を新将軍として擁立しようとする。政権を牛耳るためとはいえ、時政と牧の方のこのようなあまりにも強硬な策は一族の北条政子・北条義時らの反感を招いた。閏7月20日に、遂に政子と義時は協力して時政を執権から廃して、牧の方と共に強制的に出家させた。その後、二人は義時の手によって伊豆国に幽閉されたのである。時政はその後、二度と政界に復帰することなくその生命を終えた。また、牧の方も夫の死後は公卿に嫁いだ娘を頼って上洛し、京都で余生を過ごした。閏7月26日には平賀朝雅も幕府の命によって殺害された。そして、北条氏の第2代執権には義時が就任(ただし、承元3年(1209年)就任説もある)、義時のもとで北条氏は幕府内における地位を確固たるものとしていくのである。ただし、この事件は、後に北条氏内部で起こる執権職をめぐっての内紛の先駆けにもなった。
出典:wikipedia
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