松永 貞市(まつなが さだいち、1892年(明治25年)4月25日 - 1965年(昭和40年)12月2日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。太平洋戦争初期、マレー沖海戦でイギリスの東洋艦隊を壊滅させた航空隊指揮官として名高い。佐賀藩士(松永彦兵衛(商人)→子孫が佐賀藩に入藩)の子として生まれる。1913年に海軍兵学校を卒業(41期)。太平洋戦争開戦直後のマレー沖海戦では航空隊指揮官としてイギリス海軍東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズ、レナウン級巡洋戦艦レパルスの撃沈に寄与した。1944年3月に硫黄島の海軍航空隊の指揮官に就任するが、病気を患いアメリカ軍上陸前に本土に帰還した。なお、後任で海軍兵学校同期で同郷の市丸利之助少将は硫黄島玉砕に伴い戦死している。クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』に登場する海軍側硫黄島守備隊司令官の大杉海軍少将は松永中将をモデルとしているが、映画のように栗林忠道陸軍中将と確執があったとは全く伝えられていない。戦後は佐賀県で農業に従事し、1965年に自宅で亡くなった。筑前に移り住んだ松永久通(大和の戦国大名・松永久秀の嫡男)の子で筑前博多にて質屋を開業し豪商となった松永彦兵衛(一丸)を先祖とする。豪商となった彦兵衛の子孫が後に佐賀藩士となり今に至る。同門に佐賀藩士・千葉頼母組の組士375石拝領・鹿島住の松永宗伴、小笠原鹿島藩士(佐賀藩支藩)田中大炊組・鹿島住の松永所右衛門がいる。松永氏は商人から武将となり再び商人へと戻り藩に入り藩士となったと思われる家系であった。「思い出のネイビーブルー」や「先任将校」の著者で元海軍大尉の松永市郎は長男。市郎の娘で、iモードの産みの親の松永真理は孫にあたる。昭和19年5月27日(当時は祝日だった海軍記念日)、三沢基地において、いまで言うところの「基地祭」あるいは「オープンハウス」が予定されていた。だが直前になって第27航空戦隊の先任参謀が、非常時においてもってのほかと中止を言い渡した。だがそれは第27航空戦隊司令官・松永中将も知らない先任参謀の独断であり、松永中将は屋台で汁粉を食べるのを楽しみにしていたのに、それを奪われた恰好になった。翌日、隊員たち総員のマラソン大会が命令され、隊員たちは三沢基地を一周する事になった。そしてそのマラソンには例の先任参謀も加わり、最後にゴールした。このマラソン大会を命令したのは、汁粉を食べそこなった松永中将だったと推測される(神立尚紀の2014年5月20日付のブログより)。
出典:wikipedia
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