LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

フリッツ・フォン・エリック

フリッツ・フォン・エリック(Fritz Von Erich、本名:Jack Barton Adkisson、1929年8月16日 - 1997年9月10日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー、プロレスリング・プロモーター。テキサス州ジュエット出身。ギミック上の出身地はドイツ・ベルリン。アイアン・クローの開祖として知られ、「鉄の爪」はそのまま彼の異名にもなった。引退後はテキサス州ダラスおよびフォートワースを本拠地とするプロレス団体のプロモーターとして活動した。サザンメソジスト大学時代にアメリカンフットボールで活躍した後、スチュ・ハートのコーチを受けて1954年にプロレスラーとしてデビュー。ナチ・ギミックのヒールとなって活動し、カナダのトロント地区ではホイッパー・ビリー・ワトソンと抗争。このギミックの先達であるハンス・シュミットともタッグを組み、1950年代後半からは「弟」という設定のワルドー・フォン・エリックとの兄弟タッグでも悪名を売った。1961年12月1日、ミシガン州デトロイトにてディック・ザ・ブルーザーからUSヘビー級王座を奪取。1963年7月27日にはネブラスカ州オマハでバーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得、第9代王者となった。1960年代はアマリロ地区でドリー・ファンク・シニアとも抗争し、パット・オコーナー、バディ・ロジャース、ルー・テーズ、ジン・キニスキーなど、歴代王者が保持していたNWA世界ヘビー級王座にも各地で再三挑戦している。1966年よりテキサス州ダラスにてNWA傘下の団体NWAビッグタイム・レスリング(NWA Big Time Wrestling)を設立。大ヒールからベビーフェイスに転じ、同年12月にはフラッグシップ・タイトルであるNWAアメリカン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなり、以降はビッグタイム・レスリングのオーナー兼エースとして活躍。アメリカン・ヘビー級王座には1966年から1977年にかけて、ブルート・バーナード、ザ・スポイラー、バロン・フォン・ラシク、ジョニー・バレンタイン、ボリス・マレンコ、トール・タナカ、ブラックジャック・マリガン、ブルーザー・ブロディ、オックス・ベーカーらを破り、通算15回に渡って戴冠した。その間、1972年にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に度々挑戦。1975年から1976年まではNWAの会長職も務めている。1981年より団体名をWCCW(World Class Championship Wrestling)に改称し、1982年6月4日のキングコング・バンディ戦を最後に現役を引退。以降はプロモート業に注力し、WCCWのボスとして黄金時代を築く。自身の息子たち(ケビン、デビッド、ケリー)をエースに、フェイスターンしたブルーザー・ブロディが彼らの助っ人を務め、ヒール陣営ではザ・グレート・カブキ、ファビュラス・フリーバーズ、ジノ・ヘルナンデスらが活躍、NWA世界ヘビー級王者のハーリー・レイスやリック・フレアー、アンドレ・ザ・ジャイアントも招聘して北米有数の繁栄テリトリーとした。なかでも、マネージャー兼ブッカーのゲーリー・ハートが手掛けたフォン・エリック兄弟とフリーバーズの抗争アングルは、アメリカのプロレス業界誌『レスリング・オブザーバー』の " に、1983年と1984年の2年連続で選ばれたほどのドル箱カードとなった。一方で、長男のハンス(ジャック)・アドキッソン・ジュニアが幼くして不慮の事故により夭逝して以降、デビッド、ケリー、マイク、クリスと息子たちがことごとく死去、「呪われた一家」とも囁かれた(デビッドは日本で急死、ケリー、マイク、クリスは自殺)。健在なのは次男(フォン・エリック兄弟としては長男)のケビンだけとなっている。1986年2月、当時のNWA会長ジム・クロケット・ジュニアの発言力が増してNWA内部のパワーバランスが崩れ始めたことを機に、団体名をWCWA(World Class Wrestling Association)と改称してNWAを脱退。1989年にはWWFとの興行戦争に抗するべくテネシー州メンフィスのCWAと合併し、新たに発足したUSWAのダラスにおける興行を手掛けるが、最終的にはメンフィス派と袂を分かちプロレスリング・ビジネスから撤退した。その後、長年連れ添った夫人とも離婚し、1997年に癌のため死去。。2009年、フォン・エリック・ファミリー(フリッツ、ケビン、デビッド、ケリー、マイク、クリス)としてWWE殿堂に迎えられ、顕彰セレモニーにはケビンが出席した。1966年11月、日本プロレスに初来日。来日第1戦となる11月28日、大阪府立体育館にてジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している。帰国前の12月3日にも日本武道館で馬場に再挑戦したが、これは武道館におけるプロレス初興行のメインイベントでもあった。馬場の同王座には、再来日時の1967年5月27日に札幌中島スポーツセンター、1969年12月19日にロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアム、3度目の来日時の1970年3月3日に愛知県体育館、4度目の来日時の1971年9月4日に田園コロシアムにて、通算6回に渡って挑戦した。また、1967年5月23日にはギミック上の「弟」であるワルドー・フォン・エリックとのコンビで馬場&吉村道明、1970年3月7日にはプリンス・イヤウケアと組んで馬場&アントニオ猪木のBI砲が保持していたインターナショナル・タッグ王座にもそれぞれ挑戦。1971年9月6日には札幌中島スポーツセンターにおいて、猪木の持つユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座にも挑戦した。日本プロレスの最後のシリーズに参戦した1973年4月の来日時には、エリックのナチ・ギミックを継承していた「青銅の爪」キラー・カール・クラップをパートナーに、4月18日に焼津にて大木金太郎&上田馬之助からインターナショナル・タッグ王座を奪取している(帰国後に王座を返上し、後任にカール・フォン・スタイガーがクラップのパートナーとなって戴冠)。日本プロレス崩壊後の1973年12月には、ジャイアント馬場が前年に旗揚げした全日本プロレスに来日。12月13日に大阪府立体育館、翌14日に日大講堂にて、馬場のPWFヘビー級王座に連続挑戦した。1975年の再来日時には、当時のNWA世界ヘビー級王者ジャック・ブリスコへの挑戦権を賭けて、7月25日に日大講堂にて馬場とテキサス・デスマッチで対戦している。最後の来日となった1979年には、1月5日に川崎市体育館にて、馬場の弟子であるジャンボ鶴田の「試練の十番勝負」最終戦の対戦相手を務めた。すでに全盛期を過ぎていたものの、リング下でセコンドに付いていた若手選手時代の大仁田厚を、アイアン・クローをかけてそのままリング上に引きずり上げるなど、往年の迫力は健在だった。日本には日本プロレスに5回、全日本プロレスに3回、通算8回来日した。このうち、1967年5月、1970年2月、1973年4月の日本プロレスへの参戦時は、彼の代名詞でもあるアイアン・クローをシリーズ名に冠した『アイアン・クロー・シリーズ』なる短期シリーズへの外国人エースとしての来日であり、通常のシリーズへの来日時も、いずれも数日間の特別参加という超大物扱いだった。当時、アメリカではベビーフェイスに転向していたが、日本ではヒールに徹した。また、テキサス州ダラス地区のプロモーターとして、息子たちやブルーザー・ブロディ、ジノ・ヘルナンデス、ファビュラス・フリーバーズなど数々の選手を日本にブッキングした。1985年頃から日本での提携先を全日本プロレスから新日本プロレスに変更したが、自身は新日本に来ることはなかった。息子たちがまだ幼い頃、一緒に来日した際に広島市の広島平和記念資料館を見学させ、戦争の悲惨さを繰り返し説いていたという。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。