スティーヴン・バントゥー・ビコ (Stephen Bantu "Steve" Biko、1946年12月18日-1977年9月12日)は 南アフリカの反アパルトヘイト活動家。「」()の代表的活動家。1946年12月18日、ケープ州のキングウィリアムズタウンで生まれる。4歳の時に父が死に、故郷で初等・中等教育を受けた後、アリスのラブデール研修所にすすむ。バントゥー教育省が運営するこの学校には長く留まらず、ナタールのローマ・カトリック・マリアンヒル学校で高等教育を受ける。1965年に大学入学資格を得て、1966年にダーバンのナタール大学医学部・非ヨーロッパ人部門に入学した。同時にNUSAS(南アフリカ全国学生連盟)で活動していたが、1968年にこれを脱退し、SASO(南アフリカ学生機構)を結成する。1969年7月にSASOの初代議長に選出され、1970年7月には広報部長に任命された。1970年12月に結婚。1971年以降いっそう政治活動に専心するようになり、1972年半ばにナタール大学の教育課程を修了する。ただちにダーバンのBCP(黒人共同体プログラム)のために活動し始めるが、1973年3月初めSASOの7人の指導者とともに活動禁止処分を受ける。郷里のキングウィリアムズタウンに行動を限定され、BCP東ケープ支部を設立し、1975年末にBCPでの活動を禁止する追加条項が加えられるまで活動する。1975年、ジメレ信託基金の設立に尽力する。やがて、第6条により1976年8月から12月まで101日間拘留された後、起訴されないまま釈放された。1977年1月、BPC(黒人人民会議)の初代名誉議長職に任命された。1977年8月18日、再びテロリズム法第6条で拘禁され、ポートエリザベスにて警察により拷問を受け、その後プレトリアまで救命措置も受けられず普通の車にて移送される(ポートエリザベス-プレトリア間の距離は約700マイル(約1100km)で、日本の東海道・山陽新幹線東京-福岡間の距離に相当する)。1977年9月12日、移送先のプレトリアで拷問による脳挫傷のため死去。満30歳没。この時警察はハンガー・ストライキによる死亡と偽って公表した。この件に関し、当時の法務大臣(Minister of Justice and the Police)であったは、アフリカーンス語で「Dit laat my koud(It leaves me cold、日本語で「同情に値しない」の意)と言い放った。1960年代後半から1973年までは、言論による「黒人意識運動」が活動の主なるものであった。その運動はであり、実践としては黒人の自助組織としてBCPを発足させ、識字や医療支援・黒人大学・居住区での劇団・黒人神学と多様な形をとり、全てビコがその先鞭をつけた。1976年のソウェト蜂起を準備した中・高生の組織も黒人意識運動の洗礼を受けたものだった。1973年に言論活動が禁止された後も、キングウィリアムズタウンで「ンジェワカ家内工業」や「ザネンピロ共同体診療所」のプロジェクトを推進し、特に後者の資金を鉱山会社であるアングロ・アメリカン社から出させることに成功している。南アフリカでANC(アフリカ民族会議)などが非合法であったため、全国政党の役割をかわって果たしていたBPC(黒人人民会議)の精神的支柱はビコであった。1975年に設立したジメレ信託基金とは、釈放され流刑・再定住させられた黒人政治犯と扶養家族を支援するためのものである。この基金はANCやPAC(パンアフリカニスト会議)の古くからの黒人政治組織の活動家と若い「黒人意識運動」指導者を結ぶことになった。
出典:wikipedia
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