キクユ族(―ぞく、キクユ語:Agĩkũyũ)はアフリカ東部、現在のケニアを中心とした地域に住む民族。主にケニア中央部に住むバントゥー語群系農耕民で、キクユ語 (Kikuyu, Gîkûyû) を話す。ケニア人口の22%に当たる、534万(1994年)の人口を擁する国内最大の民族である。確かではないが民族学者は他のバントゥー系の民族と共に西アフリカから現在のタンザニアを抜けキリマンジャロを東に移動しケニア山の周りに移住し、残りは南部アフリカに移住したと信じている。エンブ (Embu)、メル (Meru) などの隣接民族と言語・文化的に近い。居住地は首都ナイロビから北西方面に当たる。元は狩猟採集民であったと考えられているが、ケニア山及びケニア高地で農耕を営んだ。早くから白人入植者に土地を奪われ、労働に徴用された。また、ミッション系の学校で教育を受けた多くの若者がナイロビで働いた。第一次世界大戦にケニアに入植した、後のデンマーク作家カレン・ブリクセンは自分のコーヒー園で雇用したキクユの人々について次のように書いている(『アフリカの日々』より)。反抗心を持たず、羊のように我慢強い土地の人たちは、権力も保護者もないまま、自分たちの運命に耐えてきた。偉大なあきらめの才能によって、今もなお彼らは耐えている。キクユ族はマサイ族のように隷属に耐えず死を選ぶことはないし、ソマリ族のように、傷つけられ、だまされ、軽んじられた場合、運命に挑戦することもない。異国の神とも親しみ、とらわれの境遇にも耐えてきたこうした背景から、1919年にキクユ人ツク(Harry Thuku)がナイロビで東アフリカ協会(EAA)を組織し、これがケニアの民族主義的な政治運動の始まりとなる。1924年には青年層を中核とするキクユ中央協会(KCA)ができ、植民地政府と同調する首長勢力と対決した。KCAは労働問題やアフリカ人への土地返還などと取り組み、近縁の民族だけでなく、ルオ人やルイア人とも超民族的な連帯を達成した。平和的な手段にあきたらずKCA急進派が起こしたのが1952年からのマウマウ戦争であり、これが白人入植者撤退のきっかけとなった。1960年にケニアの民族主義者たちはケニア・アフリカ民族同盟 (KANU) に結集するが、1963年の独立後、穏健派のジョモ・ケニヤッタが保守勢力を引き込んで新植民地政策をとると、急進派は社会主義をかかげて対立した。1978年ケニヤッタが没すると、ケニヤッタのキクユ人側近が副大統領のモイ擁立に動き、権力を掌握した。今日でもキクユ人の一部には、不遇の念が強くわだかまっているという。2002年以降の第3代ケニア大統領ムワイ・キバキはキクユ族の出身者であり、彼の政策は他部族から露骨なキクユ族優遇政策であると見られている。2007年12月の選挙においてキバキ陣営は対立候補であるライラ・オディンガ候補を僅差で破り再選を果たしたが、不正選挙であるとして暴動(ケニア危機 (2007年-2008年))が起こり、他部族がキクユ族に対してあからさまな敵対行動を見せるようになっている。キクユ族は歴史的には「伝統信仰」を信じてきたが、現在はほとんどがキリスト教に改宗している。キクユ族の伝統信仰は、ケニア山の頂上に座する神・()を奉ずる一神教である。ンガイは、マーサイ族からはエンカイ()と呼ばれているが、同じ神を指している。
出典:wikipedia
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