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鞆鉄道線

鞆鉄道線(ともてつどうせん)は、鞆鉄道が福山駅 - 鞆駅間で1913年(大正2年)から1954年(昭和29年)まで運行していた鉄道路線。元々軽便鉄道として開通したため、軌間762mmのナローゲージを用いていた。また、同線で使用されていた蒸気機関車の煙突がラッキョウの形に似ていたため、「ラッキョ汽車」とも呼ばれていた。1954年2月時点1925年3月11日改正時1950年5月12日改正時1909年(明治42年)10月に福山町より鞆町への交通機関として鞆町、福山町の有志と福山出身の代議士井上角五郎、大日本軌道の雨宮亘の発起により軌道条例による鞆軌道の出願がされた。1910年(明治43年)には軽便鉄道法が公布されることになったので計画を改め鞆軽便鉄道として免許状が下付された。11月に鞆軽便鉄道株式会社が設立され林半助が社長に就任した。林と役員となった太田操、酒井作治郎は鞆銀行役員であり桑田貞治郎は桑田銀行関係者でありいずれも鞆町の代表的な資産家であった。1954年2月廃止時点のもの開業時用意された車両は機関車4両(うち雨宮製作所2両、ユンク(ドイツ)2両)。ボギー客車(定員40人)6両、ボギー有蓋貨車3両、ボギー無蓋貨車6両、四輪有蓋貨車4両(雨宮製作所及び大阪加藤工場製)その後1915年(大正4年)にボギー無蓋貨車3両を自社工場で改造して夏期納涼列車(ボト11-13、定員28人)を製作。1918年(大正7年)に機関車2号(雨宮製作所製)を阪神急行電鉄に売却。1921年(大正10年)機関車(コッペル)1両とボギー客車(加藤車輌製作所製)1両を増備した。昭和になると沿線乗合自動車の進出に対抗するため運転回数増加、運転時刻短縮の必要からガソリンカーを導入することになり1927年(昭和2年)日本車輌製造で軌道自動客車(単端式気動車)を2両製作したのをはじめとして、1928年(昭和3年)に松井自動車工作所により四輪ボギー車(定員40人)を1両製作。1930年(昭和5年)、1933年(昭和8年)と片ボギー車を1両ずつ増備した。機関車はガソリンカーの増備により余剰となったため1935年(昭和10年)に1号(雨宮製作所製)を岡山県庁へ売却した。1936年(昭和11年)国鉄より軽便用2軸ボギー三等客車5両(福塩南線ケコハ225.228.233.235.237)の払下げを受けることになりボハ8-12と付番した。この客車増備により無蓋貨車より改造した客車は元の貨車に戻すことにした。戦後まもなく日本製鉄釜石より機関車2両(156・157)購入と機関車1両を新製(立山重工業)。1949年に客車1両(ボハ6)を廃車している。廃線間近には内燃動車4両、客車12両、貨車6両で蒸気機関車は使用されなくなり戦後購入した3両が車庫に留置。客車も朝のラッシュ時のみ使用されていた。

出典:wikipedia

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