ロビン・ファン・ペルシー(Robin van Persie, ; 1983年8月6日 - )は、オランダのロッテルダム出身で同国代表サッカー選手。スュペル・リグ・フェネルバフチェSK所属。ポジションはフォワード。2011-12・2012-13シーズンと2シーズン連続で異なるクラブでプレミアリーグ得点王に輝いたストライカー。オランダ代表では3度のワールドカップに出場。オランダ代表の通算得点記録の保持者でもある。父は彫刻家、母は美術教師という家庭にロッテルダムで生まれた。姉と妹が1人ずついる。SBVエクセルシオールユースからフェイエノールトユースを経て2002年にトップチームにデビューし、すぐに頭角を現す。この年のUEFAカップ優勝も経験。U-19、U-21オランダ代表にも選出された。フェイエノールト時代は左ウィング、左サイドハーフとしての起用がほとんどであった。2004年には初の国外挑戦として数多くのオファーの中から、プレミアリーグのアーセナルFCを選択。2006-07シーズンにはティエリ・アンリに代わり試合に出場したが、骨折によりシーズン終了まで離脱した。2007-08シーズン序盤、代表戦での怪我で半年近くの離脱。2008-09シーズンには11アシストを記録してプレミアリーグのアシスト王に輝いた。2009年夏、アーセナルとの契約を2014年6月まで延長した。2010-11シーズン序盤は怪我で欠場していたが、怪我から復帰後はゴールを量産。リーグ戦ではアウェーで8試合連続ゴールを記録(最終的にリーグ18得点)、またカーリングカップ決勝でも得点をあげた。しかし、チームとしては前述のカーリングカップで敗退し、カンプ・ノウでのUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦のFCバルセロナ戦では1stレグで同点ゴールを挙げ勝利に貢献したものの、2ndレグでは遅延行為により退場し、その後逆転され敗退した。2011-12シーズンはセスク・ファブレガスの移籍に伴い、アーセナルのキャプテンに就任した。チームが怪我で苦しむ中で1人好調をキープし、前年度を上回るペースでゴールを量産。シーズン終了間際の2012年4月20日時点で27ゴールをマークし、PFA最優秀選手賞を受賞した。最終的にゴール数を30にまで伸ばし、得点王となった。シーズン終了後、アーセナルとの契約を延長しないことを発表。これを受けてユヴェントスFCやマンチェスター・シティFCなどの強豪が獲得に動いたが、2012年8月15日、マンチェスター・ユナイテッドFCへ移籍した。マンチェスター・ユナイテッドでもゴールを量産し、2年連続でリーグ得点王を獲得。優勝を決めたアストン・ヴィラFC戦ではハットトリックを達成した。オランダ代表で共にワールドカップを戦ったルイ・ファン・ハールが監督に就任した2014-15シーズンは度重なる負傷に悩まされ、26試合の出場で10ゴールと満足行く結果を残すことができなかった。2015年7月14日、トルコのフェネルバフチェSKへ完全移籍することを発表した。2005年6月4日にルーマニア戦でオランダ代表デビューを果たし、ドイツワールドカップにも出場。グループリーグのコートジボワール戦で強烈なフリーキックを決めるなどオランダの予選突破に貢献した。EURO2008ではスーパーサブとして2得点を挙げる活躍を見せ、グループリーグでのオランダの快進撃に貢献した。2010 FIFAワールドカップにも出場し、チームは準優勝したが、自身はカメルーン戦の1得点のみに終わった。2011年9月2日のUEFA EURO 2012予選のサンマリノ戦では1試合4得点を記録した。2013年10月11日の2014 FIFAワールドカップ予選ハンガリー戦でハットトリックを記録し、パトリック・クライファートのオランダ代表最多得点記録を更新した。2014年のブラジルワールドカップでは主将として、3位決定戦までの7試合のうち累積警告で出場停止となったチリ戦以外の6試合に出場した。対スペイン戦において背後からの素晴らしいクロスボールをダイビングヘッドでループシュートを決め、これはFIFA公式サイトで実施された大会の最優秀ゴールの投票において2位に輝いた。最終的に出場した6試合で4得点を挙げ、チームの3位入賞に貢献した。
出典:wikipedia
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