烏丸 光広(からすまる みつひろ)は、江戸時代前期の公卿・歌人・能書家。准大臣烏丸光宣の長男。官位は正二位権大納言。細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ。天正7年(1579年)に准大臣・烏丸光宣の長男として誕生。母は不詳。経済的に恵まれた環境のもと、同9年(1581年)わずか3歳で従五位下に叙された。弁官や蔵人頭を経て、慶長11年(1606年)1月参議に任じられて公卿に列したが、同14年(1609年)7月に起きた猪熊事件(侍従猪熊教利による女官密通事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられた。同16年(1611年)4月に勅免されて還任し、元和2年(1616年)2月権大納言に進み、同6年(1620年)1月正二位に昇ったが、これ以降官位の昇進は見られず、寛永15年(1638年)7月13日に薨去。享年60。初め西賀茂霊源寺に葬られたが、寛文3年(1663年)7月洛西太秦の法雲院に移された。法名は法雲院泰翁宗山。伝記に孫・資慶による『烏丸光広卿行状』がある。後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り、公卿の中でも特に江戸幕府側に好意を寄せていた。また、自由闊達な性格で逸話にも富み、多才多芸な宮廷文化人として、和歌や書・茶道を得意とした。とりわけ歌道は慶長8年(1603年)に細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、将軍・徳川家光の歌道指南役をも勤めている。書については、大変ユニークではあったが、寛永の三筆に決して劣らず、光広流と称される。本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭・一糸文守(いっしもんじゅ)に帰依して禅をも修めた。歌集に『黄葉和歌集』、著書に『耳底記』・『あづまの道の記』・『日光山紀行』・『春のあけぼのの記』、仮名草子に『目覚草』などがある。また、俵屋宗達筆による『細道屏風』に画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに、『東行記』などがある。東行記(とうこうき)1巻は、東下りの際に書かれた紀行文である。色変わりの淡い染紙を継いだ料紙を用い、その奔放な書風は、いかにも桃山的な大らかさをもっている。光広は寛永の三筆とほぼ同時期に活躍した書人で、その書は寛永の三筆とならび称される。ただし、光広の書はその後の人々が習うことがなかったため書流とはなり得えず、光悦流に含められることがほとんどである。しかし、筆跡研究家の渡部清はそのユニークな書に対し、著書『影印 日本の書流』の中で、あえて「光広流」の章を設けている。光広の書は非常に個性が強く、形の上から極めて捉えにくいところがあり、手本となりにくいものであるため、寛永の三筆の書のように人々に流行することがなかった。光広は多才多芸で非常に器用なため、あるときは定家流、あるときは光悦流で書くことがあったが、決してそれにのめり込んでしまうことなく、根本には光広の書がしっかりと根を下ろしていた。その書風は、持明院流 - 定家流 - 光悦流 - 光広流と変遷したと考えられる。光広は古筆の鑑識にも長けており、古筆鑑定を業とした古筆家の初代・古筆了佐が豊臣秀次から古筆姓を給わったのは光広の斡旋によるものであったといわれる。はじめ了佐と光広の関係は歌を通してのものであったが、後に了佐は光広から古筆の鑑定も学んだ。嫡男である中納言・烏丸光賢は細川忠興娘・まんと結婚。また、光賢の娘・ややは従兄の熊本藩主・細川光尚に嫁しており、烏丸家と細川氏の縁戚関係は深い。
出典:wikipedia
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