サルヴァトーレ・シャリーノ(Salvatore Sciarrino,1947年4月4日 - )は、イタリアの現代音楽の作曲家。シチリアのパレルモ出身。独学で作曲を学んでいたところフランコ・エヴァンジェリスティにスカウトされ、「オーケストラの為の子守唄」、「二台のピアノの為のソナタ」でデビューする。前衛イディオムからは導けない驚異の音色の魔術師と称賛され、ルイージ・ノーノは「鋭い音響の亡霊」と称えた。当時ちょうどツェルボーニ内紛の真っ只中にあり、たった一作をツェルボーニ社に預けた後、全作品をリコルディ社から出版する契約を1969年に結んだ。リコルディの赤字経営が原因で、2005年にRAI TRADEへ移籍。オーケストラ曲でもTUTTIをほとんど使わず、沈黙から忍び寄る音響を得意とする点は全生涯に渡って変わっていない。演奏家の協力の下で個性的な楽器法を生み出すのを得意とし、ロベルト・ファブリッチアーニ、マッシミリアーノ・ダメリーニ、サルヴァトーレ・アッカルド、マリオ・カローリなどの名手から様々な特殊奏法を生み出した。これについては後述する。作風は大まかにいって以下の区分に分けられるが、これは「音源の入手の容易さ」と密接に関わった区分である。最近作は、高い確率で音盤化される。シャリーノの作風を決定付ける「わかりやすさ」は過剰な反復性と頻繁なパルスの使用にある。その典型例は「de o de do」であり、ただでさえ聞き苦しいモダンチェンバロを隅から隅まで急速な音符で饒舌にまくし立てる。「弦楽四重奏曲第2番(1967)」(これは後に「六つの小さな弦楽四重奏(1992)」として再構成されたものの二作目に当る)は弱音であっても、駒の後ろのピッチカート、舞うようなハーモニクス、聴取の難しい音程の飛躍などを存分に張り巡らせる。確定記譜でありながら、凡庸な楽器法を一切使わない硬派な作曲態度が世界中で絶賛された。以後、「ダッラピッコラ国際作曲賞」をはじめとする様々な受賞歴に輝くことになる。通常、弦楽器の人工ハーモニクスは響きの安定の為に「四分法」しか用いない。しかし彼は「二分法」、「三分法」、「五分法」を従来の「四分法」と混ぜて用いて、ハーモニクスの質感の差異を際立たせる楽器法を用いた。この楽器法は人気が高く、現在でも最も若手が模倣する楽器法の一つとなっている。この時期の彼の発案による「スパッツォラーレ」は弓を上下にではなく左右に奏し、さまざまな高次倍音を瞬時に沸きあがらせる技法として、「最もシャリーノらしい」特殊奏法と呼ばれる。「六つの奇想曲(1976)」はこれらの楽器法がすべて出現するヴァイオリンソロ作品で、現在でもヴァイオリニストに人気の高い作品だが、演奏は至難である。1970年代には「大室内ソナタ(1971)」、「アスペレン組曲(1979)」などの代表作を次々と発表し、名声を確立する。どれが背景でどれが効果音でどれが旋律で、といった音響の分類を沈黙が常に否定するのは、シャリーノの全創作時期を通じて不変である。普通に知られている奏法すら聞いたこともない音に聞こえるのは、その音の周りが全て特殊奏法であるため、などといった効果も多用される。この時期のイタリアの現代音楽は、予想以上に秘匿主義が徹底しており、LP化されることもなければ再演すら稀と言う時代であった。そのせいもあって、この時期の作品は録音が極めて少ない。シャリーノはデビュー当時は不確定性を消極的に使用(「プレリュード」は音名の指示がない)していたが、程なくして確定楽譜に収まった。「ソナタ第1番」ではショパンのノクターンの第2番の結尾直前の音型とラヴェルの「夜のガスパール」のダブルトリルを抽出して、飽きるまで繰り返される。リコルディから常に新刊が出ていたにもかかわらず、イタリア国外で彼の作品が演奏されることは稀で、彼の作品はヨーロッパからほとんど外に出ていなかった。新ロマン主義が流行すると、早速彼はソプラノ、チェロ、ピアノの為の「ヴァニタス(1981)」でストレートな三和音、半音階進行、グリッサンドなどを投入した。既に「アナモルフォジ(1980)」の時点でラヴェルの作品を引用していたが、彼は調性的な音色の使用を短所とみなさず、むしろ新たな未聴感としてとらえた。「ソナタ第2番」ではラヴェルの「夜のガスパール」の音型を全曲に渡って埋め尽くし、反復の乱用によって聴き手を一種の飽和状態に陥れる。「夜に」ではラヴェルの前述の作品のストレートな引用だが、「ソナタ第2番」ではオンディーヌの23小節目から任意に音高を抽出したイディオムであるため、引用元が聞き取りにくい、というのも第一期から得意とした作曲技法である。1980年代はフルートを中心に様々な特殊奏法が生まれた。「用いられていない運指を使って擬似トレモロ」、「舌をマウスピースに叩きつけるタングラムでパルス」、「ホイッスルトーンをアンブシュアの位置によって音色成分を変える」など、従来のフルート音楽の常識を様々に塗り替えた。現在ではシャリーノのオリジナルがフルート音楽の常識として捉えられるまでに至っている。作品リストに編曲が増えだすのはこの頃からであり、それと同じくして他者の楽曲の引用が姿を消してくる。この時期に書かれたピアノのための「ソナタ第3番」では、無限ループ状にした素材から感覚的に部分を抜き取るなどのユニークな構成法が光っている。しかし、ルイジ・ノーノの死はシャリーノに大きな打撃を与え、この時期以降厭世的な音楽を多作するようになった。1991年にパドヴァ大学のコンピューターを駆使して作曲し、シュトゥットガルトで初演されたオペラ「ペルセウスとアンドロメダ」は伴奏のオーケストラがなくコンピューターだけで伴奏するが、歌手と合わせるために指揮者は存在する。電子楽器MUSIC Vを用いたこれは非常に例外的なケースであり、シャリーノはほとんど生楽器で真価を発揮する作曲家である。新ロマン主義の流行が終わると、彼もそれを察知して「聞きにくい音響」に鞍替えした。「雲に捧げられた作品の間に」では「指がキーから離れる音」まで追求され、特殊奏法のマニエリスムからの脱却を図ろうとしている。編曲作品もついに「バッハ作曲(?)トッカータとフーガ」をフルートソロのために書き下ろすなど、サービス精神が目立ってくるのはこの時期からである。住まいを既に「チッタ・ディ・カステロ」に移していた彼は、ルチア・ロンケッティ、フランチェスコ・フィリディ、権代敦彦などの俊英を、この地で行ったマスタークラスで次々と発掘した。「ソナタ第4番」は90年代に書かれた最も個性的な作品の一つであり、「トーン・クラスター」と「擬似アルペジョ」の二つの組み合わせのみで全曲が構成される特異なピアノ曲である。「音楽とは思えない素材」に対する固執はこの時期から強まり、「単一の楽器は特定の素材しか演奏しない」傾向が加速化する。「夜想曲」では沈黙の中を「擬似アルペジョ」がふらふらと舞うのみであり、痺れを切らして憤慨した聴衆の咳がCDに収録されている。この作品は同一コンセプトで現在までに6曲書かれており、場合によっては19世紀的なオクターブも使われている。演奏は至難である。2003年には構想から完成までに20年を要したオペラ「マクベス」で、その創作を集大成する。ビゼーやヴェルディなどのクリシェと自己イディオムの混濁は、第二期までの快楽主義とは隔たりがある。編成は小さいが、「我が裏切りの光(これは厳密には誤訳であり『私を裏切った目』という意味である)」と「無限の漆黒」は最もシャリーノらしいと初演から好評で、世界中で大ヒットし、国際作曲家としての地位がここで確立した。しかしながら、シャリーノはイタリアを出ることを極端に嫌がり、委嘱が海外から入ってもスコアとパート譜を送付するのみで、演奏に立ち会うことはほとんどなかった。彼が若い時から望んだ日本への渡航も20世紀はついに実現せず、来日が実現したのは2005年であった。作風にほとんど変化はない。一つの試みが成功すると、すぐその路線で多作する傾向はそのままであり、彼のオーケストラ個展では「全く同じ音が」、「全く同じタイミングで」、「全く同じシチュエーションを共有する」作品が並ぶことすらある。「電話の考古学(2005)」では話し中のブザーから携帯電話NOKIAの着信メロディーまで模倣するものの、構成感は年を経るにつれ散漫化或いはモザイク化へ向かっており、最近では華美さを避け、曖昧模糊とした音響を薄く延ばす楽器法に傾斜してきている。リコーディストの鈴木俊哉やイェレミアス・シュヴァルツァーの名演奏にも触れ、シャリーノはリコーダーにも開眼する結果となった。その代表が「四つのアダジオ」である。和泉式部の原作に基づくオペラ「ダ ゲロ ア ゲロ(2006)」やヴァイオリン協奏曲「人工四季(2006)」では人声を模したグリッサンドが頻出するが、沈黙に近い瞬間は徐々に減じている。「旅のノート(2003)」ではクラシカルなメロディがそのままバリトンによって担われており、ここでも沈黙は減少している。ドナウエッシンゲン音楽祭2009のために「声による夜想曲の書(2009)」を出品するが、作品の評価は分かれた。その理由として「サンダーシート、チューブラーベル、大太鼓」を全く同じ組み合わせで使うが、この楽器法は数十作で使いまわされている。マウリツィオ・ポリーニによって初演された「ソナタ第5番」はあまりのコーダの演奏困難さ故に「コーダを書き換える」処置に追われ、これが元でポリーニとの縁がこじれ二度とポリーニはシャリーノ作品を手がけなくなった。ポリーニのためのピアノ協奏曲(「薄暗いレチタティーボ」)も一曲書き下ろしたものの、以後はイギリスのピアニストのニコラス・ハッジスへピアノ独奏作品の紹介を全面的に託した。このような事情で、ポリーニとブーレーズの共演した音源は、CD化されていない。「サックスのキークラップは『ほとんど聞こえないから100台持ってこい』」と言って、世界ではじめての100台のサックスでキークラップを行う作品を作曲した。2008年に入って作曲されたリコーダーとオーケストラのための「四つのアダジオ(2008)」では、初演直後に拍手とブラヴォーと圧倒的多数のブーイングが乱れ飛んだ。休憩時間にシャリーノは放送局のブースに入り、「大変に、騒がしい初演となりました」というアナウンサーに対して、「30年前もこんな感じだったけれど、あの時は客が本気で殴りかかったんです」などと応答している。リコルディ時代は英訳や独訳も受容に応じて付されていたが、RAI TRADE時代はそのような配慮は行われておらず、全文がイタリア語で書かれている。パウル・ザッヒャー財団は、再三にわたり自筆譜の管理を高額な費用で申し出た。断わったとも伝えられたが、2012年現在は所蔵されている。シャリーノのスコアは長年自筆譜のコピーだったが、2012年現在はイタリアのk361にコンピュータ出力清書が委託されており、自筆譜は照会できない。
出典:wikipedia
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