石ノ森 章太郎(いしのもり しょうたろう、1938年〈昭和13年〉1月25日 - 1998年〈平成10年〉1月28日)は、日本の漫画家、特撮作品原作者。本名、小野寺 章太郎(おのでら しょうたろう)。1984年までは石森 章太郎の表記を用いたが、この時期には「いしもり〜」と呼ばれるのが通例だった。SF漫画から学習漫画まで幅広い分野で作品を量産し「漫画の王様」、「漫画の帝王」と評された。代表作は『サイボーグ009』、『009ノ1』、『リュウの道』、『ジュン』、『佐武と市捕物控』、『さるとびエッちゃん』、『ロボット刑事』、『マンガ日本経済入門』、『HOTEL』など。仮面ライダーシリーズを始め、特撮作品の原作者としても活躍。昭和30〜40年代、マンガの世界で新しい手法の開発者としてとくに目立った存在であり、多様な分野と作風の中でもとくにSFマンガで他への影響が手塚治虫と並んで大きく、昭和40年代始め頃にはマンガの王様と呼ばれていた。この時期の作風は、SF(S&F)的感覚・詩的叙情・アクションを含むことが多かった。それらの要素は1971年に放送開始された仮面ライダー以降、徐々に特撮作品へと移っていき、執筆する漫画の傾向は青年漫画や学習漫画など幅広いものとなっていった。1989年、漫画には「面白い、おかしい」だけではない多数の表現が可能になったとして、漫画の新しい呼び名「萬画」を提唱し「萬画宣言」を発表。以降は自らの職業を「漫画家」ではなく「萬画家」と称した。没後の2007年末には、500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集』(角川書店)が、一人の著者による最も多い漫画の出版の記録としてギネス・ワールド・レコーズに認定されている。なお、テレビ原作者(アニメ、実写)としてのクレジットは放映期間のべ六十数年分に及び、野村胡堂、長谷川町子らを凌駕して国内最高で、2016年現在も更新し続けている。手塚治虫のSFマンガの第一人者であったが、熱心なSFの読者としても知られ、海外SF小説から作品のヒントを得ていたことも指摘されている。息子に俳優の小野寺丈(長男)と石森プロ社長の小野寺章(次男)がいる。親戚(はとこ)に小説家の今野敏がいる。1938年(昭和13年)1月25日、宮城県登米郡石森町(いしのもりちょう、現登米市中田町石森。これが石ノ森のペンネームの由来である。当時「軍隊生活 兵営便り」など軍隊漫画絵葉書で活躍していたイラストレーター・小野寺秋風の絵柄を嫌い、同じ苗字を避けて石森を名乗った)に、父・康太郎(こうたろう)、母・カシクの長男として生まれる。姉、弟2人、妹の5人兄弟。下記にもあるように当初は映画監督を志していたが、3歳上の姉は生来病弱で外出もままならないため、学校での出来事や外での見聞などを絵に描いて見せていたのが、漫画の原点であったという。そして手塚治虫の「新寶島」に出会い衝撃を受ける。以後手塚治虫の大ファンになった。中学時代、近所の子供を集めて漫画同人誌『墨汁一滴』を作るも、2号で廃刊。2年生の時「毎日中学生新聞」に4コマ漫画を投稿し入選、以後投稿マニアとなる。宮城県佐沼高等学校入学後、『漫画少年』への投稿仲間を集めて「東日本漫画研究会」を設立、肉筆回覧誌『墨汁一滴』を制作する。このころ既に漫画業界で「宮城県に天才がいる」と評判になっている。この頃のあだ名は「じゃがいも」。高校2年生の春、漫画少年の投稿が手塚治虫の目に入り、『鉄腕アトム』のアシスタントを務める。高校在学中の1954年(昭和29年)、手塚治虫の仲介が入り石ノ森は漫画少年で漫画家としてデビューすることになる。デビュー作は『漫画少年』新年号にて「二級天使」。厳格な公務員であった父からは漫画家になることを反対されていたが、姉が両親を説得するなど熱心に応援してくれたこともあり、翌年の高校卒業と同時に姉の病気治療も兼ねて二人で上京。手塚をはじめ多くの漫画家たちが住んでいたトキワ荘に住み、作家活動を始めた。トキワ荘グループの男性陣の中では最年少ではあったが、最も早く頭角を現し、赤塚不二夫などは、自分の漫画を描くよりも、石森のアシスタントをする時間の方が多いほどだった。また創作速度も極めて速く、藤子不二雄やのちに石ノ森のアシスタントを務めた永井豪など、石ノ森を知る人間は口を揃えて制作の速さを証言している。藤子の『まんが道』では、藤子が2人で一日に5、6枚描ければよいところを、石ノ森は1人で15-20枚を描いていたという話が出てくる。また石ノ森のエッセイ漫画『サンジェルマン伯爵』(サイボーグ009「海底ピラミッド編」のエピローグに相当)には、「昔(赤塚不二夫と二人で描いていた時代)は月650枚という無茶もやったが、最近では歳だから300枚でフウフウいう」とある。しかし1958年(昭和33年)4月、トキワ荘で石ノ森と同居し、トキワ荘グループのマドンナ的存在となっていた姉が急逝した。最大の理解者であった姉を失ったことは、後の石ノ森の作風にも大きな影響をもたらした。1959年(昭和34年)、手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに、手塚治虫の身代わりとして東映動画(現・東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に派遣された。石ノ森は月岡とともに「このまま東映動画に入ってアニメーションをやりたい」と訴えたが、当時東映動画の若手スタッフだった白川大作(後に東映動画専務)から「(絵が個性的でアニメに向かないから)ちゃんと漫画をやれ。そのかわり漫画が売れたらそれを原作として買いに行く」と説得されて断念した。後にこのときの約束通り東映動画で作品がアニメ化された。さらに東映本体での特撮番組企画へとつながる東映グループとの接点のきっかけとなる。トキワ荘に長く住んで国民的売れっ子作家にまでなった藤子、赤塚らの中ではもっとも遅い時期まで住み続けていた。1964年(昭和39年)7月19日より代表作『サイボーグ009』の連載を開始。この頃にはすでにスター作家となっており、この時期に描かれた石ノ森のマンガ入門書『マンガ家入門』(1965年)『続・マンガ家入門』(1966年)は当時から広く読まれた。これは漫画の技術論から、具体的なストーリー構想術までが書かれた画期的な漫画家入門書で、長年の間漫画家志望者のバイブルとなった。また、『サイボーグ009』を連載していた当時、ファンレターの宛先が漫画家の住所となっていたため多数の読者が訪問していた。すがやみつるが『サイボーグ009』の連載終了直後に訪問したときは、サインを貰いにきた別の訪問者に対して、訪問者に見えないところで当時チーフアシスタントであった永井豪が絵だけではなくサインまで書き上げて渡していたという。このような対応を行わないと仕事にならないほど訪問者がきていたことが原因である。仮面ライダーシリーズ、スーパー戦隊シリーズ(『秘密戦隊ゴレンジャー』『ジャッカー電撃隊』)の生みの親の一人である、渡邊亮徳(東映本社元副社長、当時の東映テレビ部事業本部長)との出会いと絶大なるサポートによって、1971年(昭和46年)より特撮作品『仮面ライダー』の原作とその漫画化(仮面ライダー)を担当。既にある漫画の実写映像化ではなく、製作会社である東映の企画に設定とキャラクターデザインを提供、できあがったものを元に漫画も執筆するというものであり、この成功をきっかけに同社における数多くの特撮・変身ヒーロー番組の原作を手がけることになった。もともと映画監督志望だったこともあり、一部の作品(『仮面ライダー』や『イナズマン』)では監督も務めている。これらの実写作品では、主役などのレギュラーのキャラクターデザインを石ノ森が手がけるのが通例だったが、『仮面ライダーストロンガー』以降の仮面ライダーシリーズや『アクマイザー3』『秘密戦隊ゴレンジャー』『ジャッカー電撃隊』などの1970年代中期以降の作品では、毎回登場するゲストのキャラクター(敵の怪人)のデザインも数多くおこなっている。ゲストのキャラクターのデザインの多くは簡単な設定込みで石ノ森がラフスケッチを起こすという形で行われ、このラフスケッチをもとに東映の番組スタッフ側でシナリオや着ぐるみがつくられた。1981年(昭和56年)より日本漫画家協会理事を務める。1985年(昭和60年)、画業30年を機に「石森章太郎」から「石ノ森章太郎」に改名した。もともとは「石森」で「いしのもり」と読ませるつもりだったが、誰も「いしのもり」と読んでくれず、「いしもり」の読みが定着してしまっていたため、初心に戻る意味をこめて改名を行なったという。しかし山田ゴロが自身のサイトで語るところによると、これまで打ち合わせ・旅行・忘年会などの季節行事で関係者一同に頻繁に会っていたのが、改名した頃からなくなってしまい、石森プロに連絡しても会わせてくれなくなった。ほどなく関係者一同の間で「先生は病気らしい」という話が広まったという。1998年(平成10年)1月28日死去。。死因はリンパ腫による心不全。誕生日の3日後であった。戒名は「石森院漫徳章現居士」。墓は東京都豊島区池袋三丁目の祥雲寺にある。アシスタント経験者かつ弟子でもある永井豪は、石ノ森のことを「常人の5倍のスピードで描ける天才」と評している。※五十音順この欄で紹介する作品は、テレビ番組の企画のブレーンとしての参加であり、テレビの企画が先行し漫画が原作というわけではない(詳細は上記の「経歴」を参照)。また、自らは漫画を描いていない作品も多い。以下は没後製作されたが、著作権管理を一括する配慮からテロップでは原作者とされている。スーパー戦隊シリーズの原作は、第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』と第2作『ジャッカー電撃隊』のみ石ノ森(当時は「石森」)が担当し、第3作『バトルフィーバーJ』以降は八手三郎に交代した。ただし、ゴレンジャーとジャッカーも登場する場合や仮面ライダーシリーズとのクロスオーバーでは、石ノ森も連名でクレジットされている。なお、『仮面ライダーディケイド』第24・25話と『侍戦隊シンケンジャー』第20・21話(両作品のクロスオーバー)においては、『ディケイド』では石ノ森のみが、『シンケンジャー』では八手のみが原作者としてクレジットされた。『手裏剣戦隊ニンニンジャー』第7話にはアカレンジャーが登場しているが、石ノ森のクレジットはない。一方、石ノ森(石森)が単独原作者とされる東映作品(『宇宙鉄人キョーダイン』『快傑ズバット』『氷河戦士ガイスラッガー』など)において、八手が作詞者としてクレジットされている楽曲が多い。以下は没後の製作。以下は没後の製作。この他、『新・おみやさん』2012年版第1話と『京都地検の女』2012年版第1話では両作品同士のクロスオーバーが行われたが、『京都地検の女』では石ノ森は原作者としてクレジットされていない。映像作品のコミカライズ、ノベライズは除く。仮面ライダーシリーズの漫画作品は、仮面ライダーシリーズ#他の作家による漫画作品を参照。など。など。角川グループ創立60周年の記念企画。2006年2月22日第1期発売開始。全12期500冊。770タイトルにもなる。2008年現在全12期発行完了。ネットでの予約販売のみ(一般書店では購入不可能)、各期ごとのセット販売のみ(1冊ずつの購入は不可能)、限定生産という、入手を難しくする条件が重なったため、復刊ドットコムで販売形式が発表された当初は、掲示板に批判的な意見が多数寄せられた。2008年1月24日にギネス・ワールド・レコーズから「1人の著者によって出版された最多コミックの記録」として世界記録の認定を受けた。2014年〜2015年には、同様の企画として電子書籍『石ノ森章太郎 デジタル大全』(石森プロ・講談社)の配信が開始されている。(全15期500冊予定)上のアニメや特撮の原作となった作品のキャラクターは省いている。原作者という立場ではあるが、いくつかの作品では、石ノ森章太郎本人がテレビ番組や映画作品中に出演している。出演時期によっては「石森章太郎」名義になっている。手塚治虫と石ノ森章太郎は単に知名度のみならず、漫画作品の質・量とも随一であり、二人にまたがるエピソードも多いため、節を分けて解説する。(1985年に改名して「石ノ森章太郎」となるよりも前のことがらについては、歴史的事実に忠実に「石森章太郎」と表記するべきである。)石森章太郎は幼少の頃、手塚治虫・酒井七馬の「新寶島」に衝撃を受け漫画家を志し、手塚治虫の連載していた学童社の漫画少年誌の読者投稿欄に毎回送っていた。手塚治虫は石森章太郎を「ズバ抜けたデッサン」「天才的な少年の絵」と評価し、それは次第に仕事を手伝って欲しいと思わせるようになる。高校2年生の春、『鉄腕アトム』の「電光人間の巻」執筆中の手塚治虫に「シゴトヲテツダツテホシイ」との電報を受けて、学校を休んで上京。中間テストを挟んで手塚治虫のアシスタントを務めた。このとき背景や脇役だけを描けば充分であったにもかかわらず、アトムやヒゲオヤジなどのメインキャラクターまですべてを手塚タッチで描いてみせたため、手塚も度肝を抜かれたという。手塚治虫の仲介が入り石森章太郎は漫画少年誌で漫画家としてデビューすることになる。デビュー作「二級天使」の原稿をみた手塚治虫は「かれもディズニーにいかれているな」と評したという。高校卒業と同時に上京、その一ヶ月後、手塚治虫が住んでいたトキワ荘に住む。1959年(昭和34年)、手塚治虫が制作スタッフとして加わっていた東映動画(現・東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に、手塚治虫から依頼されて助手として派遣された。漫画の執筆等により多忙で制作に参加できなくなった手塚治虫が、自分の代わりとして当時手塚のアシスタントであった月岡貞夫とともに送り込んだのであった。1967年(昭和42年)より虫プロ商事発行の『COM』に石森章太郎が連載した『ジュン』は、姉への愛情とその喪失を主題に、明確なストーリーを描かずに絵とコマの流れだけで叙情的な世界を表現した実験的な作品であり、当時の漫画読者に熱狂的に迎えられた。しかしこの時に手塚治虫と石森章太郎の両方のファンであるという某読者が手塚治虫に対して『ジュン』についての感想を求めた手紙に対して手塚治虫は「あれはマンガではない」と『ジュン』と批判するととれる内容を返信した。その読者はそれを手塚治虫はこのように評していますと石森章太郎に送った。それを読んで衝撃を受けた石森章太郎は『ジュン』の打ち切りを宣言したが、直後に手塚が一人で直接に石森章太郎の住むアパートを訪れて、「なぜあんなことを言ったのか分からない」と謝罪したというエピソードがある。結局『ジュン』はそれ以降も描き継がれ、『佐武と市捕物控』とともに1968年の小学館漫画賞受賞作品となった。その後に二人の関係は修復し、手塚は何度か石森を自身の漫画に登場させている。手塚が亡くなる少し前には二人で対談も行なっている。1990年「手塚治虫展 フィルムは生きている」で、タイトル題字を藤子不二雄、鈴木伸一、馬場のぼる等との共同で担当。没後、第2回手塚治虫文化賞マンガ特別賞が贈られる。山田及びすがやのサイトによると、正確には「石ノ森の作画作業を補助する、本来の意味のアシスタント」(こちらは石森スタジオと呼ばれていた)と、「石森プロ関連作品の漫画化やキャラクター商品などの絵描き」の二種類があり、両者は仕事場も別々で、どちらかしか担当したことがない者も多いという。例として永井は前者、すがやは後者である。石森が亡くなった際、葬儀は密葬にて行われたが、『ライダー』ブームから始まるテレビまんが誌黎明期に活躍していた門下生たちは直訴した結果、石森の家までの集団訪問を許されている。石ノ森はすがやに対し「アシスタントは多かったが、弟子はすがやだけである」と述べている。
出典:wikipedia
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