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土佐坊昌俊

土佐坊 昌俊(とさのぼう しょうしゅん、永治元年8月15日(1141年9月19日)? - 文治元年10月26日(1185年11月19日))は、平安時代末期の僧・武将。大和国興福寺金剛堂の堂衆で、年貢の問題で大和国針の庄の代官を夜討ちにした為、大番役として上洛していた土肥実平に預けられる。実平に伴われて関東に下向したのち源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加する。文治元年(1185年)10月9日、頼朝と弟の源義経が対立すると、頼朝は京にいる義経を誅するべく御家人達を収集するが、名乗り出る者がいない中、昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発前、頼朝に下野国にいる老母と乳児の行く末を託し、頼朝は下野国の中泉荘を与えている。昌俊は弟の三上弥六家季ら83騎の軍勢で鎌倉を出発し、17日に京の義経の館である六条室町亭を襲撃する(堀川夜討)。義経の家人達は出払っていて手薄であったが、義経は佐藤忠信らを伴い、自ら討って出て応戦した。のちに源行家の軍勢も義経に加わり、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが、義経の郎党に捕らえられ、26日、家人と共に六条河原で梟首された(『吾妻鏡』)。義経は襲撃翌日の18日に後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受け取ると直ちに挙兵の準備を開始した。なお『吾妻鏡』によれば、昌俊に対して予め9日間で上洛するように命じているが、義経の元には13日に義経暗殺計画が伝えられて同日(『玉葉』では16日)に後白河法皇に頼朝追討令宣旨の勅許を求めている。従って、義経らが襲撃に訪れた昌俊らを予め待ち構えていた可能性が高い(なお、『平家物語』延慶本では、9月29日に鎌倉を出発して10月10日に京に到着したことになっている)。更に昌俊の出発と入れ替わるように源範頼・佐々木定綱らが治承・寿永の乱に従軍していた御家人を引き連れて京都を出発して関東に帰還しており、義経とその配下の従軍者の引き離しを終えていた。更に頼朝追討の宣旨が出された事を報じる使者が鎌倉に着いた22日には24日に鎌倉勝長寿院にて開かれる予定の源義朝の法要のために各地の御家人やその郎党が鎌倉に集結しつつあった(頼朝は法要終了後、直ちに彼らを義経討伐に派遣している)。そのため、頼朝による昌俊派遣の目的は義経暗殺そのものよりも、義経を挑発して頼朝に叛旗を翻す口実を与えることを目的としていたとする見方もある。なお、昌俊が頼朝から派遣された刺客というのは義経側の主張であって、編纂物である『吾妻鏡』や『平家物語』が示す鎌倉(頼朝側)の動きを立証する同時代史料が存在しないことから、兄・頼朝との対立を避けられないと考えた義経が先に頼朝追討を決意した結果、在京あるいは畿内周辺に拠点を持つ御家人が動揺してその中にいた土佐坊昌俊・三上家季兄弟らが頼朝への忠義から義経排除を決意したとする説もある(三上氏は近江国野洲郡の出身とされ、昌俊兄弟も元の本拠地は同地であった可能性がある)。『平治物語』において、源義朝の愛妾である常盤御前にその死を伝えた義朝の郎党金王丸(こんのうまる)を昌俊とする説があるが、両者が同一人物かどうかは史料において確認されていない(真下基行#金王丸の墓の伝承も参照)。金王八幡宮が鎮座する東京都渋谷は、桓武天皇の孫高望王の子孫と名乗る秩父党の昌俊の祖父河崎冠者基家が、永承6年(1051年)に前九年の役での武功により与えられた武蔵国豊島郡谷盛庄にあたる。また同神社は渋谷氏歴代の居城渋谷城の一部で、寛治6年(1092年)に基家が城内の一角に創建したと伝えられる。今も神社の一隅には、渋谷金王丸常光を祀る金王丸影堂があり、傍らに「渋谷城・砦の石」と伝わる石塊が残る。

出典:wikipedia

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