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B-58 (航空機)

B-58とは、コンベア社が開発しアメリカ空軍に制式採用された戦略爆撃機で、愛称はハスラー(Hustler;博打打ち)である。東西冷戦下におけるアメリカの大量核報復戦略に基づいて製造された、マッハ2の快足を誇るデルタ翼爆撃機であり、アメリカ空軍としては初の超音速爆撃機である。冷戦下で対立を続けていたソビエト連邦およびワルシャワ条約機構の防空網を、高高度から高速で突破して核攻撃できる能力を目指して開発された。主翼はコンベア社が得意としていたデルタ翼で、前縁後退角はマッハ2での巡航に最適とされている60度である。胴体は、同じくコンベアのF-102でも採り入れられたエリアルールが適用された結果、主翼との結合部が大きくくびれた「コークボトル」状となっている。機内容積が減少するためこのような胴体の形状は爆撃機としては適した構造とはいえないが、B-58の場合は後述のように爆弾倉を外装式として対応している。構造材にはハニカム構造を大幅に採り入れることにより軽量化しており、外板の大部分にはアルミ合金でサンドイッチしたフェノール樹脂ハニカムが採用され、エンジンの排気を浴びる主翼下面にはステンレスハニカムが使用された。このため、構造重量は全備重量のわずか14%に過ぎず、デルタ翼の広い翼面積と相まって、B-58の特徴である高空高速巡航に有利な低い翼面荷重が実現されていた。B-58では高空・高速での空力的目標が最優先され、ステルス性は重要視されていなかったが、機体の小型化によってRCSを抑えようとしており、角度によってはB-52の1/10~1/30のRCSを実現できたとされている。エンジンは4基のGE J79を、主翼下にポッド式に搭載している。J79はそれまでのエンジンと異なり、高度35,000フィート以上では連続2時間のアフターバーナー使用が可能となっており、このエンジンなくしてB-58の超音速での巡航は実現不可能だった。本機の武装面での最大の特徴は、爆撃機でありながら機体内に爆弾倉を持たず、自衛用火器(後述)を除く全ての武装を、胴体下部に装着した外装ポッド(ミッションポッド)に収納した点にある。外装ポッドは投棄可能で、内部の燃料を使い切り、爆弾をポッドごと目標に投下し身軽になった後は、高速で離脱可能であった。胴体内に爆弾倉を持たないことから、機体を小型化できたほか、空力的に成形された様々な武装やエンジンを爆弾倉のサイズに制約されずに装着できた。外装ポッドは様々なタイプのものが製作されたが、実用となったものはMk39核弾頭を収納するMB-1と、Mk54核弾頭を収納した小型ポッドに燃料を積んだ大型ポッドを組み合わせた「親子式」のTCP(Two Component Pod)との2種類である。さらに爆弾以外に偵察用の機材も装備可能で、写真偵察用のLA-1などが製作された。合成開口レーダーAN/APS-73を装備したSLARポッドは試作に終わったが、キューバ危機においてキューバ空域を偵察飛行した際に使用されたと伝えられている。このように秀逸なアイデアに見えた外装ポッドだったが、後に様々な問題の原因となり、B-58の寿命を縮めてしまう結果となる(後述)。自衛用火器として機体尾端にM61A1とほぼ同仕様のT-171E2(後期型ではE3)20mmバルカン砲を装備している。なお、B-58に特徴的な事象として、20mm砲の砲口速度がB-58の最高速度よりも低いため、その速度域において後方に向かって発射された20mm砲弾は、B-58を追い掛けるように「後ろ向きに」飛翔する。もしも実際に使用されたなら、B-58を追尾する敵機は、自らに向かってくる砲弾ではなく、あたかも「機雷」のように空中にばらまかれた砲弾に自分から突っ込む格好で撃墜された筈だった。当時は東側諸国においてもミグ15やミグ17などの多数の亜音速戦闘機が現役であり、これらの戦闘機がB-58に追いつく事は不可能であり、従って自衛火器は無用の長物であった。敵機がB-58を迎撃するには空対空ミサイル装備が必須となり、その場合は自衛火器は全く役に立たない。マッハ2級の超音速戦闘機ならB-58の追尾も可能であるが、ほとんどがミサイルを搭載しており、わざわざ同速度で追尾して機関砲を用いてB-58を迎撃する事は考えられない。そのため、これ以降に開発された多くの爆撃機では、後方に向けた自衛火器の搭載はなされていない。B-58は当初、他の機体同様、射出座席型の脱出装置を装備していたが、超音速飛行中の脱出で1名死亡、2名重傷の重大な結果を招き、カプセル式の脱出装置が新たに開発・装備された。脱出の際には、上から3分割式のクラムシェル型ブラインドが降りてカプセルが密閉。内部を加圧した後、機体外に射出される。着地前にはエアバッグが展開してソフトランディングし、着水時にはフローティングシステムが作動する。さらにカプセル内には水や食料も備えてあり、着地後はそのままシェルターの役目も果たせた。一方で、カプセル内の空間は非常に小さく、ただでさえ狭かったB-58のコクピットはさらに窮屈となってしまった。なお、訓練用のTB-58Aについては、後部乗員(教官とオブザーバー)の移動を妨げないよう、従来の射出座席のままとされている。以上のようにB-58には数多くの新機軸が盛り込まれたが、結果、当時としては非常に高価な機体となってしまい、費用対効果の面で不利となった。B-58は1960年8月に部隊への配属が開始、1962年10月までに合計86機のB-58Aが生産され、実戦配備された(他に、テスト用のRB-58Bから11機がB-58A仕様に改造された)。B-58は部隊配属直後から様々な記録飛行に挑戦を開始する。1961年1月12日に2,000km周回コースでペイロード1,000kgおよび2,000kg搭載状態での平均速度記録1,708.75km/hを樹立したのを皮切りに、同日に1,000km周回、ペイロード1,000kgおよび2,000kg搭載状態、14日には1,000km周回、ペイロード1,000kg,2,000kg搭載、および無搭載状態での平均速度記録を樹立し、それまでソビエトが保持していた最高記録をもぎ取った。さらに、翌1962年5月には北米大陸往復飛行に挑戦。復路のニューヨーク-ロサンゼルス間の飛行では、史上初めて地球の自転速度を超え、「西に沈む太陽を追い越して」飛行した。1963年10月には沖縄の嘉手納基地から、イギリスのグリーンナムコモン基地まで、5回の空中給油を受けながら飛行し、途中、東京-ロンドン間の平均速度記録を樹立した。これは記録飛行であると同時に、北極越えの大圏コースを飛行し、数度の空中給油を手際よくこなすなど、戦略爆撃機としての実戦能力を示すデモフライトでもあった。このようにB-58の数々の記録への挑戦は、新型爆撃機の性能を誇示する機会ともなった。部隊配備当初の華々しい「レコード・ブレイカー」としての活躍とは裏腹に、B-58は実戦とは縁遠い存在となっていく。ロバート・マクナマラ国防長官によるアメリカ軍の大量核報復戦略の一部転換(大陸間弾道ミサイルへのシフト)や運用コストの高騰、トラブルの多発や整備性の悪さ、さらには航続距離の短さや、通常爆弾の搭載量が少なく、ボーイングB-52ほどの汎用性がなかったことから、B-58は急速にその価値を低下させていった。アメリカ空軍内では、1965年から本格化したベトナム戦争への投入も検討された。具体的にはB-58を戦闘爆撃機のパスファインダー(先導機)として使用する案が検討され、アメリカ本土でのテストの他、下面を黒、上面をタンとグリーンの2色で塗り分けた迷彩も制定された。しかし、パスファインダーとしての能力は認められたものの、後述するインテグラルタンクへの被弾の懸念から実施は断念された。他にも通常爆弾の搭載量がB-52に比べて少なかった、整備に高度の技術を要するためアメリカ本土から遠いタイ王国やフィリピンなどの東南アジアの前線基地での運用が困難だった上に、近代的設備を擁しておりB-58の運用が可能だった嘉手納基地からは遠いなど様々なマイナス要因が存在し、当時最新鋭の機体が撃墜されることのマイナスイメージを懸念したマクナマラ国防長官の反対があったとも言われている。実際に、テキサス州やアーカンソー州、インディアナ州などアメリカ国内の複数の基地に配備されたものの、アメリカ国外の基地に配備されることはなかった。結局、ベトナム戦争が激化して爆撃機が必要であるにもかかわらず、B-58は登場してからわずか5年後の1965年12月には、1970年6月までに退役させると決定された。折しもベトナム戦争の激化に伴う軍事費の増大とその圧縮が求められたこともあり、計画はさらに前倒しされ、1970年1月16日には全機の退役が完了。最初の部隊配備からわずか10年足らずで、B-58はアメリカ空軍から姿を消した。なお、B-58は爆撃機としては一度も実戦へ投入されないまま引退したが、偵察機としては1962年10月のキューバ危機で出動し、少なくとも1回はキューバ領空に侵入、偵察したとされている。他に、1964年3月のアラスカ地震の時にも被害状況を撮影するために2機が出動した。B-58の前途は、実は実戦配備前から閉ざされていた。カテゴリーIIテストの進行中にアメリカ空軍参謀本部はランド・コーポレーションにB-58の評価を依頼したが、「搭載力と航続距離でB-52に劣る」、「防空網の充実で進行速度は将来的に問題にならない」と厳しい評価が下った。実際に高空高速侵攻戦術は、程なくしてソビエトの防空網の充実によって有効性を失い、同時にB-58も戦略的価値を失った。同時代の他の爆撃機、例えばB-52やアブロ バルカンなどは新たな戦術である低空侵攻に適応して生き残ったが、B-58は以下のような要因から低空侵攻に適応できなかった。運用上も、決して使い勝手の良い機体ではなく、特に外装式の兵装ポッドに起因する問題が多発した。B-58は高空高速侵攻と核戦争に過度に特化した機体であったために、戦術・用兵思想の転換や、戦争形態の変化(地域紛争、非対称戦の多発)に適応できなかった。経済的にも負担が大きく、結果、アメリカ空軍の戦略爆撃機としては異例の短命で退役を余儀なくされた。一方で、B-58の問題点は製造元のコンベア社でも認識されており、新型エンジンや通常爆弾に対応した新型ポッドなどを装備した改良型、B-58Bを提案していた。185機の生産計画があり、B-58Aの1機のエンジンを換装してプロトタイプとする計画も具体化しつつあったが、低空侵攻用としてはB-52の改良型(G/H型)、高空侵攻用としてはB-70の開発を控えている状況ではB-58Bの開発・配備のメリットは小さく、1959年7月7日にキャンセルされた。実用面での問題が多く、実戦にも投入されなかったこともあって、本機は成功作といえなかったのではないかという議論が、時折発生する。逆に、B-58は戦略的には一定の「戦果」を上げたとの意見もある。すなわち、B-58の開発当時は、依然として高空高速侵攻が有効な戦術と認識されていた。実際にも超音速爆撃機の研究も米ソ両国をはじめ各国で進められ、さらにその幾つかは具体化しつつあった。そのような状況下では、(たとえ実際には価値が低かったとしても)数々の速度記録を打ち立てている超音速戦略爆撃機が100機近くも実戦配備されているという事実は、当時アメリカに対峙していたソ連に多大なプレッシャーを与え、超音速爆撃機に対応した防空網の整備のために莫大な支出を余儀無くさせたと思われ、さらにその後の戦術の転換のために、ソビエト側はそれまでの高空侵攻への備えが無駄になったばかりか、低空侵攻に対応した防空網の新たな構築まで強いられる結果となった。つまり、当時の仮想敵国(主として財政面)に間接的ダメージを与えた一種の「ブラフ(はったり)」としての「戦果」を考えれば、B-58の存在はあながち無駄ではなかったという評価も多い。

出典:wikipedia

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