ササ・サルセード("Sa-Sá" Salcedo、本名:Santiago Gabriel Salcedo Gonzalez、1981年9月6日 - )は、パラグアイ出身の同国代表サッカー選手。ポジションはフォワード(FW)。サッカー選手のは実弟。幼少時はサロンフットボール(フットサル)に取り組んでいたが、15歳の時にパラグアイの名門サッカークラブ、セロ・ポルテーニョの下部組織に入団したことを機に、本格的にサッカーを始めた。2000年、翌2001年に開催される南米ユース選手権に出場するU-20パラグアイ代表に招集され、ここでの活躍によってセロ・ポルテーニョのトップチーム昇格を果たした。2001年にはFIFAワールドユース選手権に出場。準々決勝では前半中にFWフリオ・ゴンサレスが退場し10人での戦いを強いられたが、ササが決勝点となる得点を挙げてチリを破り、パラグアイのベスト4入りに貢献した。この頃のセロ・ポルテーニョのチームメイトに廣山望がおり、その後も連絡を取り合う仲となった。2003年6月、トルコの古豪・MKEアンカラギュジュに移籍するも、ササにとって初めての海外移籍であり、生活に馴染めず、契約を解消して退団し、2004年5月、セロ・ポルテーニョに復帰。2005年に監督に就任したグスタボ・コスタスからFWの軸として抜擢されると得点を量産。12試合で9得点を挙げ、リーグ得点王に輝いた。さらに同年のコパ・リベルタドーレスでも8試合9得点の活躍で得点王を獲得。一躍各国のクラブから争奪の的となったが、Jリーグ・FC東京強化部の霜田正浩がいち早く契約交渉に乗り出し、2005年7月、FC東京への完全移籍が発表された。原博実監督はササのゴール前での強さや得点力を高く評価し、ササを活かす布陣・戦術を模索したものの、レギュラーには定着できなかった。同年11月、パラグアイA代表としてイラン4カ国トーナメントに出場。2006年、原に代わりガーロが監督に就くと、序盤こそ先発出場を続けたが次第に冷遇されるようになり、目標のワールドカップ代表メンバー入りも逃した。出場機会を求めて、同年7月よりアルゼンチン1部リーグのニューウェルズ・オールドボーイズへと12月末までのレンタル移籍。移籍後の初戦で2得点を挙げる活躍を見せた。ニューウェルズ側は慰留の構えを見せていたが、交渉が折り合わず、2007年1月にメキシコ1部リーグのハグアレス・デ・チアパスへレンタル移籍した。同年5月に結婚。2007年8月、ニューウェルズ・オールドボーイズへ完全移籍。2007-08シーズン後期リーグで9得点を挙げた活躍が買われ、翌シーズンには名門CAリーベル・プレートへ移籍した。2009年、ニューウェルズ・オールドボーイズに復帰。同年8月にCAラヌースへ移籍。2011年1月にはアルヘンティノス・ジュニアーズへレンタル移籍。アルゼンチンでは6年間プレーすることとなったが、この間、人種差別に苦しめられたとインタビューでコメントしている。セロ・ポルテーニョは2012年に創設100周年を迎えることから、それに見合う補強としてササの獲得に尽力し、同年2月に移籍を発表。7年ぶりの古巣復帰となった。また、グアテマラ代表戦で6年3ヶ月ぶりとなる国際Aマッチ出場。2013年、アルゼンチン2部リーグ・CAバンフィエルドへレンタル移籍し、チーム得点王となる活躍で1部昇格に貢献。2015年はクラブ・ソル・デ・アメリカへレンタル移籍。同年9月にはクラウスーラ第10節サンタニ戦及び同13節ルビオ・ニュでハットトリックを達成するなど得点を荒稼ぎ。1936年のフラミニオ・シルバ以来となる79年ぶりのリーグ最多得点記録更新も期待されたが及ばなかった。同年のパラグアイ年間最優秀選手賞ではデルリス・ゴンサレスに次ぐ2番目の票を得た。2016年、クラブ・リベルタへ移籍。168||70||||||||||||8||1||||||||||||18||6||4||0||2||0||24||6181||49||||||3||1||||39||17||||||||||||17||0||||||||||||431||143||||||||||||!通算!!colspan="2"|CONMEBOL|-!通算
出典:wikipedia
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