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石上乙麻呂

石上 乙麻呂(いそのかみ の おとまろ、生年不詳 - 天平勝宝2年9月1日(750年10月9日))は、奈良時代の公卿・文人。名は弟麻呂とも記される。左大臣・石上麻呂の三男。官位は従三位・中納言。神亀元年(724年)聖武天皇の即位後間もなく、正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵。天平4年(732年)従五位上・丹波守となって以降、藤原四子政権・橘諸兄政権を通じて急速に昇進し、天平8年(736年)正五位下、天平9年(737年)正五位上、天平10年(738年)従四位下・左大弁に叙任される。しかし、天平11年(739年)故藤原宇合の妻で女官であった久米若売との姦通の罪を問われて土佐国に配流に処せられた(若売は下総国に配流)。これは一説には中央政界内部の争いによる冤罪であるともいわれている。翌天平12年(740年)大赦が行われ、若女は入京を許される一方で乙麻呂は赦免の対象から除かれている。天平13年(741年)にも恭仁京遷都に伴う大規模な大赦があり、今回は全ての流人が赦されていることから、乙麻呂も土佐から帰京したか。天平15年(743年)従四位上に叙せられる。のち西海道巡察使・常陸守・治部卿・右大弁・中務卿などを経て、天平20年(748年)従三位・参議に叙任され公卿に列す。この間、天平18年(746年)に計画され中止となった第11次遣唐使の大使に任命されている。この遣唐使は、緊張関係にあった新羅への牽制と、黄金の輸入を目的としたものと想定されている。天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の即位に伴って中納言に昇進する。翌天平勝宝2年(750年)9月1日薨去。最終官位は中納言従三位兼中務卿。家柄・声望とも優れた秀でた人材である上に、容姿風采も非常に美しかった。儒教を信奉する一方、漢詩を好んだ。『懐風藻』に土佐配流時に作成した漢詩4編が採り上げられている。また、配流の傷心を詠んだ漢詩集『銜悲藻』(二巻)があったとされるが散逸した。また、『万葉集』に2首の短歌が採られているとともに、乙麻呂の土佐配流を題材とした4首の歌群がある。注記のないものは『続日本紀』による。

出典:wikipedia

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