清原 夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の貴族・政治家。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。延暦23年(804年)同じ内舎人の官職にあった親族の山河王とともに清原真人姓の賜与と臣籍降下を希望し、これを父の小倉王が桓武天皇に上表し許される。また同時に、桓武天皇の皇女・滋野内親王の名と重なることを避けるために、名を繁野から夏野に改めている。平城朝では中監物・大舎人大允を務める。嵯峨朝に入ると、弘仁元年(810年)蔵人に春宮大進を兼ね、天皇と皇太子・大伴親王の双方に身近に仕える。翌弘仁2年(811年)従五位下に叙爵。のち宮内少輔・春宮亮を経て、弘仁5年(814年)従五位上、弘仁13年(822年)正五位下に昇叙される。また、この間に、讃岐介・讃岐守・伯耆守・下総守と地方官も兼任した。弘仁14年(823年)4月に春宮亮として仕えた大伴親王が即位(淳和天皇)すると従四位下・蔵人頭に叙任され、同年11月には参議に任ぜられ公卿に列した。天長2年(825年)には先任の参議3名(春原五百枝・多治比今麻呂・直世王)を超えて従三位・中納言に昇進し、左右大臣に並ぶ藤原冬嗣・緒嗣と、天皇の弟の大納言・良峯安世に次いで、一挙に太政官の第4位の席次に抜擢される。その後も、天長5年(828年)権大納言、天長7年(830年)大納言、天長8年(831年)正三位と目覚ましい昇進を遂げ、天長9年(832年)には右大臣に任ぜられて、天皇の外戚である左大臣・藤原緒嗣に次ぐ地位まで昇った。学識の高さや政治・経済に対する確かな見識をもって朝廷・民間双方からの信任篤く、淳和朝において以下の政治的足跡を残している。天長10年(833年)には菅原清公らとともに『令義解』を編纂するとともに、『内裏式』の改定も完了させた。また、『日本後紀』の編纂にも加わっている。天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い従二位に叙せられる。承和4年(837年)10月7日薨御。享年56。最終官位は右大臣従二位。没後正二位の位階を追贈された。平安京右京の双岡に山荘を営んだことから双岡大臣・比大臣と称された。この山荘へは天長7年(830年)に淳和天皇が行幸、承和元年(834年)には嵯峨上皇が行幸して水木を鑑賞している。山荘は夏野が没して約20年後の天安2年(858年)に文徳天皇の発願で伽藍が建立され、天安寺と称した。現在の法金剛院が山荘跡とされる。弘仁6年(815年)に嵯峨天皇の梵釈寺への行幸に従った際の漢詩作品が、『経国集』に採録されている。注記のないものは『六国史』による。
出典:wikipedia
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