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津軽順承

津軽 順承(つがる ゆきつぐ、寛政12年1月13日(1800年2月6日) - 元治2年2月5日(1865年3月2日))は、陸奥黒石藩の第2代藩主。のち陸奥弘前藩の第11代藩主。三河吉田藩の松平信明の五男。母は側室の恵覚院。正室は有馬久保の娘・彰信院(泉姫)。側室に梶文左衛門の叔母・諦信院(清瀬)。官位は従四位下、左近将監・大隅守。子は常姫(初名たま姫。はじめ津軽承祐婚約者、後津軽承昭正室)、養子・津軽承祐。幼名は新之助。初名は信寛。文政4年(1821年)6月5日、黒石藩の津軽親足の養子となって、後に養父ともなる本家弘前藩主の津軽信順から偏諱を受け、順徳(ゆきのり)と名乗った。文政7年(1824年)2月、将軍徳川家斉に拝謁する。文政8年(1825年)11月5日、養父親足の隠居により、その養嗣子として跡を継いだ。同年12月16日、従五位下左近将監に叙任する。天保10年(1839年)5月16日、本家藩主である信順が不行跡により幕府の命令で強制隠居となったため、その養嗣子として跡を継ぎ、順承と改名した(黒石藩は養子の承保が継ぐ)。佐藤一斎に師事した英才藩主で、天保の大飢饉や信順時代の浪費で破綻していた藩財政再建を目指した。名君といわれた津軽信明に倣って、5か条の倹約令や30か条の経費節減、新田開発や荒地の復興、貯蓄制度による凶作対策や洋式軍備による軍備増強、大砲鋳造や海防警備の強化、医学館や蘭学堂の設置による学問の奨励など、様々な藩政改革に努めて藩政を再建した。1855年、蝦夷地警固を命じられ、宗谷(稚内)に藩兵を派遣した。その際、ビタミンB1不足由来の浮腫病(ニコチン酸欠乏症)防止のために、コーヒー豆を支給している。安政6年(1859年)2月7日、婿養子の承昭に家督を譲って隠居し、長楽庵と号した。その後は俳句の世界に入り、梅翁という俳号を名乗った。元治2年(1865年)2月5日、66歳で死去した。政徳院殿脩道幻光大居士。墓所は東京都台東区の津梁院。弘前藩では、津軽信明と並ぶ名君と言われている。

出典:wikipedia

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