徳一(とくいつ)は奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。最澄とのあいだでやりとりされた所謂三一権実諍論や、空海に対して密教についての疑義を提示したことなどで知られる。徳一の伝記についての確実な史料は、最澄・空海の著作に残された記録である。徳一が最澄と論争をしていた弘仁8年(817年)頃から同12年(821年)頃に書かれた最澄の著作には、「陸奥の仏性抄」(『照権実鏡』)、「奥州会津県の溢和上」「奥州の義鏡」(『守護国界章』)、「奥州の北轅者」(『決権実論』)などの記述があり、この頃には陸奥国にいたことがわかる。また『守護国界章』に「麁食者(徳一のこと)、弱冠にして都を去り、久しく一隅に居す」という記述があり、この「都」は平城京であると考えられることから、遅くとも長岡京への遷都(783年)以前に20歳であったことが予想される。徳一が書いたと思われる万葉仮名が『守護国界章』に引用されているが、それには平安時代初期に中央で使われていた上代特殊仮名遣いがよく保存されていることから、中央で教育を受けたと思われる。また、『守護国界章』に「年を経て宝積(=『大宝積経』)を講ずる」とあるので、そのような活動をしていたのかもしれない。空海が弘仁6年(815年)頃、弟子康守を東国に遣わして徳一・広智に経典の書写を依頼した際、「陸州徳一菩薩」宛の書簡(高野雑筆集巻上所収)に「聞くならく、徳一菩薩は戒珠氷珠の如く、智海泓澄たり、斗藪し京を離れ、錫を振って東に往く…」と書いており、この頃には陸奥国にいたことがわかる。東大寺・円超『華厳宗章疏并因明録』(914年)には「東大寺徳一」とあり、興福寺・永超『東域伝灯目録』(1094年)には「東大寺徳一」「東大寺得一」、興福寺・蔵俊『注進法相宗章疏』(1176年)にも「奥州徳一」「東大寺徳一」とあることから、平安時代には徳一は東大寺の出身とする見方があったようである。一方、同じく平安期の『今昔物語集』巻17・陸奥国女人、地蔵ノ助ケニ依リテ活ルヲ得ル語第二十九に「今ハ昔、陸奥国ニ恵日寺ト云フ寺有リ。此レハ興福寺ノ前ノ入唐ノ僧、得一菩薩ト云フ人ノ建タル寺也」とあり、興福寺出身で入唐したという説が見える。13世紀になると『私聚百因縁集』では「左大臣藤原ノ卿恵美ノ第四男」が空海に従って東国に修行したとあり、『南都高僧伝』(13世紀頃)では「恵美大臣息」、『尊卑分脈』(14世紀頃)では興福寺出身とされ、入唐経験のある藤原仲麻呂の六男・刷雄が同一視されている。徳一と藤原刷雄とを同一視するかどうかについては、研究者のあいだで意見が分かれている。師弟関係としては、『私聚百因縁集』が異説として興福寺・修因(修円か)の弟子とし、徳一が神野山で修行したと伝える。『元亨釈書』でも修円とする。また弟子としては、やはり『私聚百因縁集』が今与の名前をあげている。徳一の開創あるいは徳一が活動したことを伝える寺院が数多くある。陸奥国・会津の慧日寺や勝常寺、常陸国の筑波山・中禅寺(大御堂)、西光院など陸奥南部~常陸にかけて多くの寺院を建立したとされる。現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐梯町)には徳一の墓と伝えられる五輪塔が残されている。勝常寺には平安初期の木造薬師如来・日光菩薩・月光菩薩像が伝えられており、徳一との関係も指摘されている。その他、田村晃祐編『徳一論叢』には後世の様々な史料、縁起が収集されている。徳一の著作は『真言宗未決文』を除いて、現存していない。『中辺義鏡』などの最澄との論争書は、最澄が反論の著作の中で大量に引用しているので、原形を推測することができる。それ以外にも、目録等にのみ書名が残っているものもある。なお、田村晃祐氏は『守護国界章』に「止観論」として引用される長い引用を、独立した一書と見なしている(田村晃祐1979)。
出典:wikipedia
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