近藤 修司(こんどう しゅうじ、1978年1月21日 - )は、日本の男性プロレスラー。WRESTLE-1所属。静岡県富士市出身。ふてぶてしい表情と全身筋肉の怪力男。通称キングコング、ドッティ、近ちゃん。東海大学付属第一高等学校(現東海大学付属翔洋高等学校)、国際武道大学時代はラグビーに明け暮れた。高校3年生時の1995年度にはCTBのレギュラーとして花園に出場している。この時、静岡県予選の決勝戦でCTBの対面だったのが後の日本代表WTBである小野澤宏時であった。大学卒業後にプロレス界入りし、闘龍門の第8期生として2001年5月18日小川内潤(JUN)戦でプロレスデビューを果たす。闘龍門T2Pメンバーとして日本マット逆上陸。T2P興行でミラノコレクションA.T.から勧誘されイタリアン・コネクションに入る。その際に、苗字の近藤からイタリアにあるコンドッティ通りにかけて、リングネームがイタリア風の「コンドッティ修司」(通称ドッティ)となる。T2Pと闘龍門JAPANの抗争後、日本人宣言を行ったイタリアン・コネクションだったが、ベビーターンするユニットを"brother"YASSHIと共に拒否し、はぐれ軍団として活動する。その後、大鷲透や菅原拓也らと悪冠一色を結成しDRAGON GATEマットで人気を集めるが、2004年に素行不良としてDRAGON GATEを解雇されてしまった。T2P以降の闘龍門卒業生で立ち上げたdragondoorでリング復帰し、プロレスリング・エルドラドと名を変えたリングを主戦場とする。さらに、全日本プロレスのヒールの集団VOODOO-MURDERS(以下、VM)のメンバーとして暴れた。2005年10月22日、TAKAみちのくを破り世界ジュニアヘビー級王座を奪取。以降も防衛を重ねて、2006年8月27日に全日本プロレス・ジュニアヘビー級の実力者・カズ・ハヤシにも勝利し、ジュニア版絶対王者の地位を築き上げた。また、9月17日には小島聡と対戦し敗北するも互角に渡り合い高い評価を受けた。近藤は一時は渕正信の防衛記録(14回)を抜くかと思われる勢いを見せていたが、2007年2月17日両国国技館における中嶋勝彦との防衛戦に24分25秒、ジャーマン・スープレックス・ホールドで敗れ王座から陥落。2007年7月のジュニア・ヘビー級リーグ戦では決勝でクリス・セイビンに敗れるものの、準優勝となった。2008年9月29日、プロレスリング・エルドラドを退団し全日本プロレスに正式入団を発表、同時にVMと決別した。経緯については9月28日の全日本横浜大会、世界ジュニア王座戦にて王者である土方隆司が挑戦者の丸藤正道(プロレスリング・ノア)に破れ、ベルトが他団体へと流出した。それまでベルトにはあまり興味を示していなかった近藤だったが、この事態に「全日本所属としてベルトを奪還したい」と宣言し、入団したものである。10月1日は、全日本プロレス台湾大会のPRのため現地でカズとのデモンストレーションマッチを行った。11月3日両国大会で、GHCジュニアヘビー級王座、世界ジュニアヘビー級王座ダブルタイトル戦をKENTAを相手として時間切れ引き分け防衛した丸藤に挑戦した。このことは全日移籍後数日で決まっていたことであり、会社が近藤にかける期待はかなり大きいものであった。そして両国大会で満を持して丸藤と対戦したが、結果は惜しくも近藤が敗れてしまった。なおこの試合は2008年のプロレス大賞ベストバウトにも選ばれた。餃子の王将プレゼンツジュニアヘビー級リーグ2009の決勝でスペル・クレイジーを得意のキングコングラリアットで破り、優勝を果たした。また、2008年世界最強タッグ決定リーグ戦には近藤のVM時代から馬が合い相性もよかった諏訪魔とのタッグで出場が決定、3年ぶりに最強タッグのリングを踏みしめる。天コジに対抗してか、「スワコン」とも言われるようになった。最強タッグ公式戦3日目の後楽園ホール大会では、熱闘の末に小島からキングコングラリアットでのフォールを奪った。ジュニアヘビー級でありながら、ヘビー級選手顔負けの近藤の強さを再確認させられた試合であり、試合終了後は後楽園の観客が大爆発ともとれる歓声を送った。しかし、リーグ戦は9点で決勝進出一番乗りを果たしたものの、テンコジも同点で決勝戦を迎え、ラリアットで後楽園での雪辱を果たされ準優勝に終わった。2009年からは、諏訪魔とのタッグチームで世界タッグを狙った。そのためにチーム名を「ディストラクション」(英語で「破壊」という意味)とし、精進している。2009年上半期は全日本プロレスに参戦している稔に何度も負け続け、「負け癖が付いている」といつになく弱気であった。しかしジュニア・ヘビー級リーグ戦決勝戦にて稔を準決勝で破ったスペル・クレイジーに十八番のキングコングラリアットで突破、見事初優勝を果たした。2011年、GAORA主催のスーパーファイト2011にて、近藤、KAI vs 土井、谷嵜が組まれ、7年振りにDRAGON GATE勢と接触した。世界ジュニアヘビー級王座が稔の手に移った際に、いの一番に挑戦表明。2011年2月11日、カズ・ハヤシとの次期挑戦者決定戦を、元世界ジュニア王者渕より伝授された「逆片エビ固め」で突破。3月21日両国国技館大会にて王座に挑戦したが、惜しくも敗れた。この頃から、世界ジュニア王者の稔が提唱した『全日ジュニア三強時代』の一角を担う存在として数えられる。2011年12月25日の沖縄大会試合後にプロレスリング・ノアへの参戦を名言、翌年2012年1月15日のノア後楽園ホール大会に大和ヒロシとのタッグで第一試合に登場した(この日は、全日本プロレスの山梨大会も控えていたため、ダブルヘッダーとなった)。試合では、丸藤とリッキー・マルビン組が相手で、マルビンをキングコングラリアットで圧倒し試合後にはGHCジュニアヘビー級タッグ王座への挑戦を宣言した。2012年2月3日の後楽園ホール大会で、世界ジュニアヘビー級王座保持者のケニー・オメガから指名を受け3月20日の両国大会で挑戦するも、最後はケニーの「片翼の天使」の前に敗戦した。2012年9月29日後楽園ホール大会、金丸義信が保持するGHCジュニアヘビー級王座に挑戦しキングコングラリアットで金丸に勝利し第25代王者となった。2013年1月2日後楽園ホール大会において、大和ヒロシが保持する世界ジュニアヘビー級王座とのダブルタイトルマッチにキングコングラリアットで勝利し第34代世界ジュニアヘビー級王座になると同時に、史上初のGHCジュニア・世界ジュニアの二冠王となる。2013年6月30日の両国国技館大会を最後に、全日本プロレスを退団した。高校、大学時代にラグビーで鍛えた肉体を生かしたパワーファイトが特徴。階級がジュニアであるにもかかわらず、ヘビー級の選手も投げきるほどの力を持つ。大一番では、普段は見せないルチャをやることがある。
出典:wikipedia
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