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武田國男

武田 國男(たけだ くにお、1940年1月15日 - )は、武田薬品工業元代表取締役会長CEO、日本経済団体連合会副会長、関西経済連合会副会長。娘は馬術選手の武田麗子。1940年1月5日、神戸市の住吉村で生まれた。父、武田鋭太郎(後に六代目武田長兵衛)、母、繁子(十代目國分勘兵衛の娘)の三男で、長男、彰郎(34年生)、二男、誠郎(35生)の三兄弟。武田家住吉別邸(銜艸居・現武田資料館)で育った(武田家長男は大阪の道修町本邸に住まい後継者として教育を受ける)。1944年甲南幼稚園に入園するが、母と2人で丹波大山に疎開。戦後は、住吉別邸がアメリカ軍によって自宅の3分の2が接収され、同居生活を送る。1955年に甲南高等学校に進学、山岳部に所属する。1958年に甲南大学経済学部に入学する。それまで一度も入学試験を受けたことがなかった為、授業について行けず、大学時代は、三宮のパチンコ屋に通うのが日課であったという。1962年に武田薬品工業に入社し、経理部事業計算課に配属される。米アボット・ラボラトリーズとの合弁会社、米TAPファーマシューティカル・プロダクツのエグゼクティブ・バイスプレジデントなどを経て、1993年社長に就任。2003年6月に会長に就任した。1980年、6歳年上の長兄で、翌年の創業200周年を機に社長に昇格し、7代目長兵衛を襲名する予定であった副社長の彰郎が、ジョギング中に倒れ46歳で急逝したため、当時の社長の小西新兵衛に後継者として指名される。それまでは創業家の厄介な三男坊として社内でも鼻つまみ者であったと本人は述懐している。小西新兵衛以降、武田家以外からの社長が3代続いた間、小西新兵衛の指示によりアメリカ合弁会社に社長として派遣され、武田薬品のアメリカ本格進出に際して上市する製品として、当初の予定であった抗生物質ではなく前立腺癌の治療薬を社内の反対を押し切って投入した。これが功を奏して武田の米国事業が成長軌道に乗った。なお、当時既に抗生物質製剤はアメリカ国内では価格競争が進み成熟から衰退期に差し掛かっており、武田薬品が抗生物質を上市しても採算が取れる見込みは殆どなかったことが後に明らかになった。このときの判断は、経営者としての判断力を表すエピソードである。また、この時に海外で武田薬品とは比較にならない位に大規模な欧米の製薬会社を間近に見て憶えた強烈な危機感が、後に武田國男を武田薬品の大改革実行へと突き動かすこととなる。社長就任後は、途中膀胱癌を患い自らの生命の危機に瀕しながらも、徹底的な社内改革と人事制度刷新を進めた。ノンコア事業であった動物向け医薬品、ビタミンバルク製造や食品、化学品、農薬などを次々に切り離し、コア事業である医薬品事業への経営資源の「選択と集中」を中心とした大改革を行った結果、2002年3月期、社長9年目の連結決算で売上高1兆円を達成、純利益は2356億円。武田薬品の営業利益3.4倍、時価総額は3倍となり注目される。座右の銘は「行くに径に由らず(ゆくにこみちによらず)」。また、その社長時代に、武田薬品コンプライアンス・プログラムを実施し、企業倫理、コンプライアンスを重視した経営は、高く評価されている。2009年6月に会長を退任。相談役や顧問などの役職には就かなかった。株主総会では「私も来年の総会から皆さんと同じ株主席に据わる事になる。その立場から武田薬品の成長を今後も見守っていきたい」と語った。武田薬品は国内の主要スポーツイベントでスポンサーを務めており、会長退任まで、毎年北海道マラソンにスポンサー代表として参加。表彰式のプレゼンターなどを務めていた。

出典:wikipedia

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