サンエイソロンは、日本の競走馬、および種牡馬である。1981年の中央競馬クラシック三冠戦線で活躍し、スプリングステークスやNHK杯などに優勝した。前哨戦で力を発揮した一方、本番ではすべて敗れており、そのことからトライアル三冠馬というあだ名が付けられていた。サンエイソロンの毛色は栗毛のような美しい茶色で、手足は鹿毛の特徴である黒色であるが、後肢の1本が白く覆われていた。また、額の真ん中には小さな星が存在した。※旧年齢(数え年)で表記。サンエイソロンは1980年8月10日、新潟競馬場の新馬戦でデビュー。このデビュー戦では大江原哲が騎乗し、見事勝利した。次走の新潟3歳ステークスで重賞に初挑戦し、1番人気に推されたが7着に敗れた。その後、条件戦を4戦したが、11月のさざんか賞(400万下条件戦)を勝ったのみで、休養を入れずに翌年へと持ち越した。4歳になっての初戦は京成杯で、鞍上に中島啓之を起用したが7着に敗れた。続く東京4歳ステークスは3着、バイオレット賞(800万下条件戦)は2着と勝ち切れなかったが、小島太を鞍上に迎えて出走したスプリングステークスでは2馬身半差で優勝し、クラシック戦線の有力候補の一角になった。しかし、本番の皐月賞ではレース前日に繋靱帯炎を発症し、無念の出走取消となった。実はこの繋靱帯炎が引退までサンエイソロンに付きまとう事になる。ただ、この時の繋靱帯炎は軽症だったため、サンエイソロンはダービートライアル・NHK杯に出走することができた。ここでは皐月賞馬のカツトップエースを差し置いて、単勝1番人気に支持された。そして、レースでもカツトップエースを1馬身半離して優勝し、日本ダービーの最有力候補として注目されることになった。ダービー本番では、カツトップエースが血統から距離適性を不安視されたほか、最後の直線の長い東京競馬場は逃げ馬のカツトップエースには不利であると考えられたこともあって、サンエイソロンは断然の1番人気に支持されることになった。しかし、レースでは1コーナー22番手、4コーナー16番手という後方待機策を採ったサンエイソロンは直線で物凄い脚で追い込んできたが、先頭に立っても脚色が衰えないカツトップエースを捕まえ切れず、ハナ差で敗れた。この後、カツトップエースは屈腱炎により引退、リベンジの機会は失われた。夏を休養にあてたサンエイソロンの秋初戦はセントライト記念だった。ここではメジロティターンに敗れて2着となったが、続く京都新聞杯ではコースレコードで優勝し、菊花賞でも再び1番人気に支持された。3000メートルという長丁場に対する距離不安も囁かれていたが、馬場状態が良ければそれを払拭できるものと期待されていた。しかし、菊花賞当日は稍重となり、14番人気のミナガワマンナに4馬身差の大差をつけられて2着に敗れた。中央競馬のクラシック三冠競走のトライアルであるスプリングステークス・NHK杯・京都新聞杯の3競走を制しながらも本番に出られない・惜敗するというその姿から、サンエイソロンは「トライアル三冠馬」というあだ名が付けられ、揶揄された。とくに日本ダービーと菊花賞はそれらのトライアルで勝ち馬を破っているにもかかわらず、本番ではいずれも2着と敗れている。古馬になったサンエイソロンは初戦の中山記念こそ5着に終わったが大阪杯を優勝、今度こそGI級レースの制覇に期待が掛かったが、大阪杯後に繋靱帯炎が再発し、順調にレースが使えなくなった。それでもサンエイソロンは繋靱帯炎を闘いながら高松宮杯と毎日王冠で2着に入り、悲願のGI級レース制覇を目指し、秋の天皇賞に出走した。天皇賞では1番人気に推され、レースではいつものように後方待機策を採ったが、直線で全く伸びず12着と大敗。この後、繋靱帯炎が悪化したため、この天皇賞を最後に引退した。道中最後方から直線だけで一気に全馬をゴボウ抜きするような強烈な末脚を持つ一方、直線一気の極端なレースしかできなかったため、大競走においては先行する勝ち馬に差し脚が一歩届かない、あるいは展開が向かないことが何度も見られた。最後は脚部不安(繋靱帯炎)に悩まされることとなり、八大競走には手が届かずに終わった。引退後は種牡馬となり、当初は毎年30頭強の産駒を送り出していたがそれほどの成功はできなかった。1992年に死亡した。全妹レイホーソロンはチューリップ賞を勝ち、桜花賞4着。産駒にサマニベッピン(阪神牝馬特別など重賞3勝)、ダンツキッチョウ(青葉賞)がいる。
出典:wikipedia
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