藤原 保昌(ふじわら の やすまさ、天徳2年(958年) - 長元9年(1036年)9月)は、平安時代中期の貴族。藤原南家巨勢磨流、右京大夫・藤原致忠の子。弟に盗賊として知られる藤原保輔がいる。官位は正四位下・摂津守。摂津守となり同国平井に住したことから平井 保昌とも呼ばれる。長和2年(1013年)に左馬権頭兼大和守に任じられ、以後円融院判官代・丹後守・摂津守・山城守・肥前守・肥後守日向守などを歴任し、正四位下に昇る。また藤原道長・頼通父子の家司も務めている。武勇に秀で、源頼信・平維衡・平致頼らとともに道長四天王と称された。のちに、道長の薦めもあり女流歌人和泉式部と結婚した。保昌自身も歌人であり、『後拾遺和歌集』に和歌作品1首が採録されている。10月朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂という盗賊の首領が衣装を奪おうとその者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという。同様の説話は『宇治拾遺物語』にもある。また、後世袴垂は保昌の弟藤原保輔と同一視され、「袴垂保輔」と称されたが、今昔物語の説話が兄弟同士の間での話とは考えにくい為、実際は袴垂と藤原保輔は別人と考えられている。和泉式部に紫宸殿の梅を手折って欲しいと請われ、警護の北面武士に弓を射掛けられるもなんとか一枝を得て愛を射止めたという逸話があり、京都の祇園祭の保昌山のモチーフにもなっている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。