バーナード・チャールズ “バーニー”・エクレストン(Bernard Charles "Bernie" Ecclestone、1930年10月28日 - )は、イギリス、サフォーク州イプスウィッチ出身の実業家で元フォーミュラ1ドライバーである。フォーミュラワン・マネージメント(Formula One Management)、フォーミュラワン・アドミニストレーション(Formula One Administration)を核とするF1運営組織(フォーミュラワン・グループ)のCEOである。テレビ放映権をはじめとするF1の商業面を統括し、「世界三大スポーツイベント」のひとつに育てた。その多大な影響力からF1界の支配者(F1 Supremo)とも呼ばれる。サフォーク州バンギーに近い小村で、トロール漁船の船長の息子として生まれる。第二次世界大戦後、16歳で学校を卒業すると地元のガス工場に就職したが、その傍ら趣味であるオートバイを楽しんでいた。スペアパーツ取引の副業を手始めに、フレッド・コンプトンとともにオートバイのディーラー「Compton & Ecclestone」を設立し、後に単独経営者として国内最大級のチェーン店に成長させた。その後も不動産投資や貸金業、中古自動車を取扱う「Weekend Car Auctions」社の設立など青年実業家として活躍した。ビジネスの傍ら趣味の4輪レースではクーパーのマシンに乗り、たまにF3に出走していた(F1開幕戦1950年イギリスグランプリの前座レースにも出ている)。しかし1951年にブランズハッチで事故を経験するとしばらくレースから離れ、本業に専念した。1957年、スチュアート・ルイス=エバンスのマネージャーとしてレース界に復帰する。活動停止したコンノートのマシンを競売で買取り、転売しようとしたが上手くいかず、結局チームオーナーとしてF1モナコGPに参戦。このレースで4位入賞したエバンスはバンウォールへ移籍する。翌1958年も「B.C.Ecclestone」チームとして数戦出場し、エクレストン自身もF1ドライバーとしてモナコGPにエントリーしたが、あえなく予選落ちを喫する。イギリスGPでは予選突破を果たしたが、ジャック・フェアマンにマシンを譲り決勝では走らなかった。この年の最終戦モロッコGPでヴァンウォール所属のルイス=エバンスが大クラッシュを喫して6日後に事故死する。これを機にエクレストンはコンノートを売却し、再びモータースポーツの世界から去った。しかし、クーパーチームを運営していたロイ・サルヴァドーリの紹介で有望な若手ヨッヘン・リントと出会い、マネージャーとしてF1界に復帰。リントの所属するロータスF2チームの共同所有者にもなった。1970年、リントはドライバーズ選手権をリードしたが、イタリアGP予選中に事故死。死後チャンピオンに決定した。1972年の初めにロン・トーラナックからブラバムを買収し、再びチームオーナーとなる。カスタマー部門を閉鎖し、ワークスチームの活動に専念。独創的なマシンデザイナーゴードン・マレーを擁し、アルファロメオエンジンの独占契約、パルマラットのスポンサーマネー、大物ニキ・ラウダの獲得などによって低迷していた戦力を強化した。エースドライバーのネルソン・ピケが1981年と1983年のチャンピオンに輝くなど、大きな成功を収めた。しかしエクレストン自身はF1界の運営責任者という役割に専念するようになり、1987年にチームを手放した。その後、資金難に陥ったブラバムは迷走の末6年後に消滅する。1970年代始め、ブラバム、ロータス、マクラーレン、ティレル、マーチらイギリスの独立系コンストラクターは互助組織としてF1CA(Formula 1 Constructors Association)を結成していたが、その機能は脆弱であった。ブラバムの新オーナーに就いたバーニーはビジネス経験を活かして各国レース興業者とのギャランティー交渉などを請負い、コーリン・チャップマン、テディ・メイヤー、ケン・ティレルらオーナー仲間の信頼をえる。1974年、F1CAはFOCA(Formula One Constructors Association)に発展し、選手権の規模拡大を推進する。エクレストンは1978年にFOCA会長に就任し、マーチ創設者の一人であるマックス・モズレーをアドバイザーとして、F1の運営全体にまで影響を与えるようになる。この動きに対抗し、国際自動車連盟(FIA)の一部はジャン=マリー・バレストル会長以下国際自動車スポーツ連盟(FISA)を結成。両者の激しい対立は「FISA-FOCA戦争」と呼ばれ、バレストルとエクレストンの権力闘争の様相も呈した。1981年、両陣営は和解案としてコンコルド協定を締結し、FOCAはF1の商業権を委託されることになる。その後エクレストンはFIA副会長(プロモーション担当)を兼任。FOCAから距離をとり、自身の興業会社FOPA(Formula One Promotions and Administration)を設立し、テレビ放映権料の23%と興行権料のすべてを得ることになる(テレビ放映権料の47%はチーム、30%はFIAへ分配)。1993年にはバレストルに代わってモズレーがFIA会長に就任し、FOCA時代のコンビがF1を仕切ることになる。1997年、エクレストンはFOPAをFOAとFOMへ分割し、これを含む関連会社の親会社としてFOH(Formula One Holdings)を設立した。この年、EUのタバコ広告禁止法案にイギリス政府が反対した件で、エクレストンが労働党に100万ポンドを献金していたことがスキャンダルとなり、収賄を疑われた労働党は全額を返却した(タバコ会社はF1の重要なスポンサーであり、2006年まで特例で広告が認められていた)。また、1998年のコンコルド協定更改では、FOAがチーム分配分を除くテレビ放映権料の53%を取得するという取り決めにコンストラクターの一部が反対する事態も起きた。1990年代末、妻スラヴィカと共同信託でSLECホールディングスを設立し、傘下に自身が所有するFOH、FOA、FOMなどのF1関連企業(フォーミュラワン・ブループ)を置き、F1における様々な権利関係を統括するようになる。2001年、FIAはF1の商業権をSLECへ2011年から2111年までの100年間リースすると発表した。エクレストンはSLEC株のうち25%を手元に残し、残りを投資銀行に売却。多大な利益を得ながら、CEOとして変わらぬ権力を保った。しかし、株式の過半数がF1外部に流れる状況が運営の安定を損ねるとして、自動車メーカー連合がGPMAを結成して新シリーズ立ち上げを唱える騒ぎとなった。2005年、バーニーはCVCキャピタルパートナーズと共同でアルファプレマを設立。2006年、SLEC株の残り75%を回収し、アルファプレマを親会社にフォーミュラワン・グループを再構築した。マックス・モズレーFIA会長によるスキャンダル問題後、2008年6月3日に世界各国の自動車連盟代表者などによる会長信任投票が行われた。その直前、モズレーは各国連盟に対し信任を求める書簡を送付したがその内容の一部に「商業権を握るエクレストンとCVCの勢力拡大を止めるべき、またそれを止められるのは自分(モズレー)しかいない」旨が記されていたことから、エクレストンとモズレーの関係が悪化した。さらにモズレーが総投票数の2/3近くの信任票を受け信任されたため、その後のカナダGPではモズレー続投によるイメージ悪化と権力集中を懸念するエクレストンと各チーム代表者が会合を開き、モズレー(FIA)の介入を受けない独立した新シリーズGP1設立を話し合ったと噂された。モズレーは2009年にバジェットキャップを巡るFOTAとの騒動の末、FIA会長選に再出馬せず退任した。2013年以降、エクレストンの地位を揺るがす可能性のある贈賄容疑の裁判が行なわれている。2006年にCVCキャピタルパートナーズがバイエルン州立銀行の保有するSLEC株47.2%を取得した際、同銀行のリスクマネージャーだったゲルハルト・グリブコウスキーがエクレストンから4400万ドルの賄賂をもらい、SLEC株を不当に低く評価してCVCへの売却を円滑化したという疑いが発覚。グリブコウスキーは2011年1月に収賄・背任・脱税の容疑で逮捕され、2012年6月に禁固8年半の有罪判決を受けた。被告は当初「コンサルタント料金」として容疑を否認したものの、審理中に検察の主張を認め、エクレストンから賄賂を受け取ったと認めた。エクレストンはグリブコウスキーへの支払いを認めたものの、賄賂性については否定。エクレストン家の家族信託バンビーノ・ホールディングスについて、グリブコウスキーが英国歳入税関庁 (HMRC) に虚偽の告発をすると恐喝してきたので支払ったと説明した。エクレストンは家族への相続対策として英国外にバンビーノを設立していたが、告発によってHMRCに信託の正当性を疑われる懸念があったので、トラブルを避けるためグリブコウスキーの要求に従ったとしている。被告の証言については「単に減刑を狙ったものだ」と述べた。ミュンヘン検察当局はエクレストンの主張を認めず、2013年7月に正式にエクレストンを起訴した。また、ドイツのメディアグループ、コンスタンティン・メディアンとアメリカの投資会社ブルーウォーターズ・コミュニケーションズは、CVCへの売却操作によって本来得られるはずだった利益を失ったとして、それぞれロンドンとニューヨークで巨額の損害賠償訴訟を起こしたが、双方ともエクレストン側に有利な裁定が下された。エクレストンは法廷で無実を証明する意向で、以前と変わらず日常業務をこなしているが、裁判終了までデルタトプコ(F1の持ち株会社)の取締役を辞任すると発表した。2014年8月5日、検察、弁護側の双方は、エクレストンが1億ドル(約102億円)を支払うことを条件に、裁判の打ち切りで同意した。ドイツの法律では裁判官を含むすべての陣営が同意した場合、一部の刑事裁判を罰金もしくはより軽い罰で解決することができる。これにより、エクレストンの経歴に犯罪は残らず、事実上の無罪となり、F1トップの座にとどまる見通しとなった。ただし、別の民事訴訟はまだ進行中となっている。1970年代以降、タバコ企業などのスポンサー資金参入によりF1はアマチュアリズムを脱して商業的な拡大へ向かう。その時代の寵児としてエクレストンはコンコルド協定で運営権を勝ち取り、先進的なビジネスセンスでF1を巨大なスポーツイベントに成長させた。その最大の成功はテレビメディアに目をつけ、放映権ビジネスを導入したことである。レースファン以外の一般視聴者にも楽しめるよう競技環境の改善を図り、「安全で高級なエンターテイメント」に仕立てて世界各国へ放送契約を売りこんだ。世界的な露出効果を期待するスポンサーが集まることで、サーキットの看板広告料やVIPへのサービス業(パドッククラブ)などの付帯利益も生まれている。1996年には衛星有料放送に目をつけ、私財を投じてマルチチャンネルのFOCA TV(通称:バーニーTV)を立ち上げたが成功しなかった。これらの関連ビジネス会社を所有し、F1マネーを私有化していることに対しては独占的・儲けすぎという批判もあるが、交渉力や面倒見のよさを信頼され長きに渡り特権を認められてきた。しかし、F1の将来性という点でGPMAはバーニーの会社組織の不透明さや排他的な慣習を問題視していた(アルファプレマの設立は、GPMA側の意向を汲んだ組織再編というも見方もある)。1999年に心臓のバイパス手術をし、80歳を過ぎた高齢でもあるため、引退や後継者問題も取りざたされている。また、その拡大路線でコストが跳ね上がり、名門チームや伝統あるサーキットが財政難に追い込まれた点にも伝統派のファンから批判が寄せられている。F1の開催地選択権は事実上エクレストンが握っており、施設改修要求や興行権料の高騰でサーキット側の負担は厳しくなっている。F1に関する商業権を統括することにより、自らも莫大な財産を築き上げていることで知られる。2003年の英サンデー・タイムズ紙の長者番付では、推定資産24億ポンドで英国で3位にランクされていた。また2004年には23億4,300万ポンドに減少したとはいえ、なお8位にランクされていた。しかし後述する離婚問題で多額の慰謝料を支払った関係や、2008年以降の世界的な景気低迷による資産価値下落などの影響で、2009年には推定資産が14億6,600万ポンドに減少し24位に後退している。2007年、ルノーF1代表フラビオ・ブリアトーレと共同で、イングランド・フットボール2部リーグに所属するクイーンズ・パーク・レンジャーズFC (QPR) を買収。その後、ブリアトーレの保有株を取得し最大株主となったが、2011年にエア・アジア経営者のトニー・フェルナンデスへ売却した。最初の妻アイビーとの間に娘デボラを設けるが離婚。1984年にクロアチア人スラヴィカ・エクレストンと再婚し、SLECの社名はその名前「SLavica ECclestone」からとった。元ファッションモデルの妻は28歳年下で、夫よりも身長が30cm高い。スラヴィカとの間に生まれた長女タマラ(1984年生)と次女ペトラ(1988年生)は「イギリス版ヒルトン姉妹」と称されるセレブリティーとして度々メディアに登場している。テレビ司会者・モデルのタマラは『PLAYBOY』誌でヌードを披露した。スラヴィカは2008年11月に離婚の申し立てを行い、バーニーの持つ膨大な資産との関係で、その慰謝料が極めて高額になるのではないかと注目を集めたが、結局2009年3月に離婚が成立。慰謝料の金額は明らかにされていないが、離婚直後に発表された英タイムズ紙の長者番付でスラヴィカは推定資産7億3,400万ポンドで58位に入った。2012年8月、ブラジルGPのマーケティング部門で働いていた49歳下のブラジル人ファビアナ・フロシと結婚した。辛辣なユーモアと歯に衣着せぬ物言いで知られ、数々の発言・迷言を発している。
出典:wikipedia
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