失われた10年(うしなわれた10ねん)とは、ある国、あるいは地域の経済低迷が約10年以上の長期にわたる期間を指す語である。1980年代のメキシコ経済の不振を表した言葉が語源である。アメリカ文学におけるロストジェネレーションが、第一次世界大戦後の1920年代から1930年代、すなわち、狂騒の20年代から急転落の世界恐慌の時代にかけて活躍した経緯から、ロストジェネレーションの冷笑的で厭世的な世界観を寓喩して用いられることが多い。日本における「失われた10年」とは安定成長期終焉後の1990年代前半から2000年代前半にわたる経済低迷の期間を指す語である。小泉構造改革を含むその後については失われた20年を参照。日本銀行による急速な金融引き締め(総量規制)を端緒とした信用収縮と、在庫調整の重なったバブル崩壊後の急速な景気後退に、財務当局の失政、円高、世界的な景況悪化などの複合的な要因が次々に加わり不況が長期化した。銀行・証券会社などの大手金融機関の破綻が金融不安をひきおこすなど、日本の経済に大打撃を与えた。これにより、1973年12月から続いていた安定成長期は17年3ヶ月間で終わった。多数の企業倒産や、従業員の解雇(リストラ)、金融機関を筆頭とした企業の統廃合などが相次いだ。この10年で本来通り成長していれば、100兆円得られたという試算もある。1991年3月から始まった「失われた10年」は、バブル崩壊(平成不況)に始まり、小泉構造改革によって2002年1月を底とした外需先導での景気回復により終結した。ただし、この期間中にも、1993年末頃から1997年前半頃まで、カンフル剤注入政策(景気回復政策)によるカンフル景気または、さざ波景気(景気拡張期)、その後のアジア金融危機不況(景気後退期)、1999年初頭から2000年春頃にかけてのITバブル景気(景気拡張期)と、その後のITバブル崩壊不況(景気後退期)で景気の波はあった。ちなみに、その後の景気回復は、6年1ヶ月の長期間であったため、「いざなみ景気」と呼ばれたが、低成長にとどまり、実感がなく、しかも一部地域を除いて本格的な好景気に至らなかったため、「だらだら陽炎景気」とも呼ばれた。その後はサブプライムローンをきっかけに大不況(世界金融危機不況、世界同時不況)に陥った。このことから、いざなみ景気の期間も含めたバブル崩壊から約20年以上を不況として扱われることから、失われた20年とも呼ばれる。1992年から2002年までの長期停滞の原因について、研究機関や学者などが多くの研究成果を発表している。停滞の具体的な要因として、主に3つの要因仮説が挙げられている。経済学者の斉藤誠は、日本経済の長期低迷をもたらした主因は、資源価格の上昇と輸出産業の競争力の衰退による交易条件の悪化だとしている。経済学者の原田泰は「『失われた10年』は、労働投入・資本投入の低下によって引き起こされた」と指摘している。原田は「TFP(全要素生産性)の変動については原因は解らないが、労働投入の変動(減少)については実質賃金の上昇という原因が解っている」と指摘している。その他には以下の要因仮説が挙げられている。企業においては、1990年代後半からはデフレーションに対応する形で、優良企業では有利子負債の圧縮が進展し、高度経済成長末期から続いていた日本企業の過剰なレバレッジ体質が抜本的に転換され、財務体質が改善された。この企業行動は当時においては停滞の要因であったものの、財務基盤が強化された強力な企業群が形成された。流動資産を抱え込み過ぎて資本効率の低下した企業も生まれ、流動比率が高すぎる場合には遊休資産が多いとみなされ、買収の標的になるとの指摘もなされた。労働面では、他の世代に比較して世代人口の多い1970年代生まれが社会に出る時期であったにもかかわらず、企業が採用を削減したことから就職難が深刻化し、就職氷河期と呼ばれる状況が続いた。長期にわたる不景気がデフレーションを誘発し、労働者の給与は減少傾向をたどり、非正規雇用によるサービス業従事者が増加した。消費者の観点からいえば、デフレーションによる低価格で質のよいモノやサービスを提供する企業が増えていった時代である(良いデフレ論争参照)。衣料品ではユニクロが、小売業で100円ショップが広がっている。従来、不況といえば消費全体に落ち込みが発生するのに対し、失われた10年においては、従来、みられなかった産業形態の発達や、特定のサービスへと顧客が集中する流行現象など、不況下にあっても好成績を出す業態の存在が注目を集めた。ニッチ市場や高付加価値サービスの発展、あるいは時間的余裕で経済的な不足を補う旅行形態の流行など、いくつかの特徴的な市場の動向も注目を集めた。また、バブル景気の時代には大衆の国外旅行が急速に増加したが、この傾向は同期間において、「短い余暇を有名な観光名所めぐりと買物で過ごす」という形態から、「多少長い余暇をあまり有名ではない名所にまで足を伸ばす」や「繰り返し特定地域に足を運び、密にその地域を楽しむ(リピーター)」という形態もみられ、バブル景気の頃に主流であった気忙しいパック旅行から、「豪華客船の旅」や「貧乏旅行」、青春18きっぷなどによる「鉄道旅行」などのようなシフトもみられる。この中には、定年退職した者の夫婦旅行や失業者の長期旅行など、従来では「慎ましく暮らす」という状態が当然であった人たちによる旅行形態も含まれる。この時期、1993年卒(1992年度卒業)から2002年卒(2001年度卒業)にかけて就職活動をしていた大学生、専門学校生らは非常に厳しい就職活動(就職氷河期)を強いられていた点でも、特徴的であり、彼らは氷河期世代もしくは失われた世代(ロストジェネレーション)と呼ばれている。日本の労働分配率は、1990年頃は60%程度の水準であったが、バブル崩壊以降上昇し、2000年時点では約70%となっていた。経済学者の竹中平蔵は「売り上げが下がっても賃金は下げられないため、企業収益に対する労働分配率が上がってしまった」「バブル崩壊後も日本の企業は雇用をできるだけ守り、賃金を引き下げないように努力してきた。労働分配率の上昇は、資本分配率の低下を意味する」と指摘している。経済学者の原田泰、江川暁夫は、1990年代の経済停滞における実質賃金の上昇が、雇用を減少させたとしている。原田らは、という2つの効果が相乗して、実質賃金の大幅な上昇を招いたとしている。経済学者の田中秀臣は「名目賃金の下方硬直性の緩みが、日本の長期停滞が生み出した雇用システムの『痛み』である」と指摘している。1998年末時点で日本の不動産の価値は2797兆円に及び、住宅・宅地の価値は1714兆円と不動産全体の約六割を占めていた。1998年末の土地資産総額はピーク比で794兆円、株式資産総額は同じくピーク比で574兆円減少している。金融行政においては護送船団方式の行き詰まりが表面化した。以下の銀行・証券が破綻した。1991年以降2003年度までで181行の銀行が倒産し、1992-2002年度まで預金保険機構が救済金融機関に援助した資金の総額は25兆円となった。三洋証券はコール市場にてデフォルトを起こしたため、無担保コール市場が大混乱に陥った。これにより、金融市場は連鎖的な信用収縮を招き、事態は一気に金融恐慌の様相を呈していった。日本長期信用銀行に対して税金約7兆9,000億円を投入後、外国投資組合が10億円で落札するという異常な状態になっていた。金融当局や政治が正常なら税金投入案件を外国企業に売却するのは認めないのが通常であり、金融当局や政治がほとんど機能していない状態であった。逆ザヤを抱えた保険会社の中には、更生特例法を申請し破綻する会社が現れた。多大な資産バブルの後には反動が待っている。ところが日本政府はその影響を過小評価した。土建業者との密着性が強い保守政権は、景気浮揚のために持続的に努力したが、その効果は一時的であり、改革のための時間を無駄にする結果となった。また、この景気浮揚過程で日本政府の財政赤字は大幅に悪化したため、これは長期的に日本の経済体質を悪化させ、成長の可能性をさらに悪化させる結果となった。2000年代に小泉政権が誕生し、国民に事態の深刻性を知らせ、聖域なき構造改革が始まった。その改革はある程度の効果をもたらし、小泉政権後半期に景気は徐々に回復することができた。しかし、2008年の世界の株価大暴落によって始まった世界的経済不況は、日本に再び莫大な打撃を与えた。経済専門のクラウドソース・コンテンツ『Seeking Alpha』は、日本の低迷の主要因はバブル崩壊であり、政府・銀行の対応の遅さがデフレーションにつながったと指摘している。ベン・バーナンキは2000年の時点で、日本長期停滞の原因は「極めて稚拙な日本銀行の金融政策にある」と指摘していた。経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは、日本経済の長期低迷について「潜在成長率を大きく下回る状態が長期化していることが最大の問題」と述べており、デフレの弊害を指摘している。経済学者の岩田規久男は「バブル崩壊後の日本経済の特徴は、デフレと資産デフレが長期的に続いていることである」「バブル崩壊後の景気低迷は、バランス・シート不況という特徴を持っている」と指摘している。経済学者の香西泰は「失われた10年をデフレだけで説明できない。日銀はバブルを発生させ、バブル後に引き締め過ぎたかもしれないが、金融だけで失われた10年すべて説明するには無理がある。産業の問題や企業の失敗も、大きな影響となった。平成の経済停滞を『デフレ』というには、あまりにも物価の低下率が小さ過ぎる。産業自体のほうに大きな問題があって、金融はあまり関係ない」と指摘している。経済学者の林文夫、エドワード・プレスコットは1990年代の日本の不況は、生産性上昇率の低下・法的規制による労働時間の短縮によって起こったとする論文を書き、学会に大きな影響を与えた。後の実証研究では、技術進歩という意味においての生産性は低下していなかったという結果が出ている。池田信夫は「日本経済の長期停滞の大きな原因は、1980年代に起こった情報革命に乗り遅れたことである」と指摘している。構造問題重視の立場からは、一時的に需要増もたらす景気対策には効果がなく、規制緩和・公的企業の民営化などの構造改革を通じて生産性を高めることが重要であると主張されている。一方で需要サイドの問題を重視する立場からは、バブル崩壊後の資産価格の下落(資産デフレ)を起点とする恒常的な需要不足が長期低迷の主因であり、不況脱却策として財政・金融面からのマクロ経済安定化政策の役割が強調されている。竹中平蔵は「『失われた10年』は、日本の企業が過大な債務の償却を先送りし、長期に渡って持ち続けたからである」と指摘している。不良債権を1兆円処理するごとに15000人の失業者を生むという試算もあった。森永卓郎は「1996年頃には、首都圏の商業地の地価はバブルが始まった1986年頃の水準に戻っている。つまり、バブルの調整は終わっている。1996年以降に発生している不良債権は、不動産価格の下落・景気低迷による経営悪化、つまりデフレの深化によるものである」と指摘している。日本の1994年時点の不況について、ジョン・ケネス・ガルブレイスは「(経済改革が必要であるという議論は)現実的な話ではなく、日本経済が直面しているのは循環的なものである」と指摘していた。経済学者の野口旭は「日本経済が長期低迷したのは、構造問題ではなく、基本的に総需要不足によるものである」「総需要不足が10年以上続いている状態は、歴史的ほとんど無い例であるが、『長さ』だけを根拠として、問題は需要側ではなく供給側にあると主張することは間違いである。日本の10年にもわたる低成長は、基本的には、総需要の不足によって生じたということは、持続的な失業率の上昇、物価の下落(デフレ)という事実から明白である」と指摘している。「日本経済の低成長は需要不足ではなく、構造問題から生じている」という議論について、野口旭、田中秀臣は「『日本経済にデフレ・ギャップは存在しない。さらに、現実の失業率はすべて構造的失業である」と主張することに等しい』」と指摘している。は、構造問題が処理されていなかった1990年代以前において目覚ましい経済成長が認められるとして、構造問題を原因とする見方を批判している。ヴェルナーは、日本の不況の主因を銀行システムの不良債権問題だと考えている。ヴェルナーの言う不良債権問題は、処理の先送りではなくて貸し渋りのことである。日銀短観によると、銀行の貸し渋りは1997年半ばから1998年に観測されたが、1993-1996年、1999-2000年には観測されていない。野口旭は「1990年代で明らかに貸し渋りがあったのは、1997年、1998年だけであったというのが経済の専門家間の定説である」と指摘している。みずほ総合研究所は「供給サイドの論者が指摘するように、生産性の高い企業・産業が、資源の供給不足によって成長が不可能になっている状態であれば、遊休資源としての失業は存在しないはずである。また、経済が需要不足ではなく供給の制約に直面しているのであれば、物価は下落せず上昇するはずである」「1990年代を通して経済成長力を抑制し、その結果として需要不足を恒常化させている最大の原因は、一般物価・資産価格の持続的な下落(デフレ・資産デフレの進行)である」と指摘している。竹中は「この10年間で日本は大不況だったとされているが、数字の上では必ずしも正しくない。この10年間の年平均経済成長率は1.2%であり、生活水準は13%程度高くなっている」と指摘している。また竹中は「この10年間は、企業が痛みをかぶり、労働者に分配してきた」と指摘している。また竹中は「小泉内閣は『失われた10年』を終わらせたという意味では、歴史的使命を果たした」と指摘している。1990年以降、OECD加盟国のほとんどは2%以上の実質経済成長率、4%程度の名目経済成長率を達成している(2010年時点)。岩田は「バブル崩壊後の日本の実質経済成長率は平均で1980年代の約4%から、1992年以降は約1%へと4分の1に低下した。それ以前の10年間と比べて大きく悪化しており、他の主要国と比べても大きく劣っている」と指摘している。
出典:wikipedia
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