ラザヴィー・ホラーサーン州( استان خراسان رضوی Ostān-e Khorāsān-e Rażavī)はイランの州(オスターン)。イラン北東部にあって州都はマシュハド。管下にマシュハドのほか、グーチャーン、ダルギャズ、チェナーラーン、サラフス、ファリーマーン、トルバテ・ジャーム、ターイバード、フェルドウス、ガーイェン、ハーフ、ラシュトハール、カーシュマル、バルダスキャン、ネイシャーブール、サブゼヴァール、ゴナーバード、キャラート、ハリーラーバードの諸郡を擁する。ラザヴィー・ホラーサーン州は2004年のホラーサーン州の3分割に伴って成立した州である。ラザヴィーとはアラビア語で「リダーの」という意味であり、州都マシュハドに聖廟のあるシーア派8代イマーム・アリー・アッ=リダーに因んだ名である。ホラーサーンは長い歴史を通じ、幾多の王朝が支配し、あるいは興り亡びた土地であり、アラブ、テュルク、モンゴル、トゥルクマーン、などさまざまな人々が到来し、歴史に変化を与えてきた。イラン古代の地理学者はイラン(「イーラーン・シャフル」:イラン世界)を8地域に区分したが、そのうち最大で最も繁栄していた地域がホラーサーンである。アルサケス朝は長いあいだホラーサーンのメルヴ近郊を基盤とした。サーサーン朝期には「パドグースバーン」という称号を持つエスパフボド(将軍)と、4つに分割した地域それぞれの太守が治めた。619年に西突厥の統葉護可汗がサーサーン朝のDatoyan王子の守るトゥースに攻め込んだの戦場となった。西突厥の帰路を襲ったの王子によってサーサーン朝が勝利したが、ビザンチン・サーサーン戦争 (602年 - 628年)中のサーサーン朝の背後を突いて東ローマ帝国を支援する役目は果たした。ホラーサーンはイスラーム征服後、ニーシャープール、メルヴ、ヘラート、バルフの各都市を中心とする四地域に分割される。651年、アラブ・イスラーム勢力がホラーサーンに侵入し、以後820年までアッバース朝の支配下にあり、896年イラン系ターヒル朝、900年サーマーン朝が続いた。ガズナ朝のスルターン・マフムードが994年、ホラーサーンを征服、さらに1037年にはセルジューク朝の初代スルタン・トゥグリル・ベグがニーシャーブールを征服している。その後、ホラーサーンをめぐってセルジューク朝とガズナ朝の対立が続き、最終的にはガズナ朝がスルターン・サンジャルを破った。しかし1157年にはホラズム・シャー朝の支配下に入り、モンゴル帝国の侵入を受けイルハン朝の領域となった。14世紀に入るとで()が始まり独立の旗が掲げられた。1368年、ティームールがホラーサーンを手に入れ、ヘラートをその首都とした。1507年、ホラーサーンはウズベク族に征服された。1747年のアフシャール朝のナーディル・シャー没後はの勢力圏となっている。ガージャール朝の時代にはイギリスがイギリス東インド会社の保護のためにアフガーンを支援し、ヘラートはイランから分割された。ナーセロッディーン・シャーはヘラート奪還を目指したが果たせなかった。最終的に1903年のパリ条約によってイランはヘラートを含む今日のアフガニスタン領域への領有権主張を取り下げることになる。こうしてホラーサーンは人口稠密な東部地域がイギリス保護下に入り、残余の西部地域がイラン領として残ったのである。ホラーサーン州はイラン最大の州であったが、2004年9月29日に北ホラーサーン、南ホラーサーン、ラザヴィー・ホラーサーンの三州に分割された(2004年5月18日国会通過、同29日護憲評議会通過)。ホラーサーン地域にはペルシア、ホラーサーニー・テュルク、トゥルクマーン、クルド、アラブなどのエスニック・グループが住む。また近年はアフガン難民が流入し、かなり大きなコミュニティを作っている。州内には泉、小さな湖、洞窟、自然公園、自然保護区、散策地など多くの自然を活用した観光地がある。これに加えて、ホラーサーンは数多くの宗教建築、巡礼地が散在しており、イマーム・レザー廟やゴハルシャード・モスクなどが代表的で、ほかにも多くの墓廟、イマーム・ザーデがある。またイラン文化遺産協会にはホラーサーン3州全体で1179ヵ所が登録されている。ラザヴィー・ホラーサーン州の主な名所は以下の通り。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。