株式会社さくらコマースとは、東京都府中市に拠点を置く企業である。パチンコ店などのギャンブル事業や、スーパーマーケットの経営を行う一方、会社名義で競走馬を保有し「サクラ」の冠名をつけて走らせていることで知られている。かつてはボウリング場、焼肉店のモランボン、喫茶店、居酒屋なども経営していたが、いずれも撤退している。会社の生みの親である全演植(ジョン・ヨンシュク)・鎭植(ジンシク)兄弟は朝鮮全羅南道出身。1941年に日本に渡り、太平洋戦争後にヤミ市での麦芽飴の製造販売を皮切りにして北多摩郡府中町(現:府中市)を拠点に各種事業を展開。1951年3月、弟・鎭植は父と兄・演植の3人で「さくら遊技場」というパチンコ店を、また1958年3月には、さくらコマース(当時・さくら食品デパート)1号店をオープンした。1993年12月、兄・演植が死去。その息子の尚烈(サンヨリ)が1984年から会社を引き継いでいる。全兄弟が朝鮮半島から日本に渡ったのが、桜が咲き始める3月であった。このことと、日本の地域住民に永く愛され商売をする意味で、日本人が好む桜の花にちなみ屋号に「さくら」を入れた。3月は兄弟が店を始め、演植が誕生および結婚した月でもあり、3月にちなんで「第三さくら」「さくら三番館」など店名に「3」の数字を入れた店舗もある。営業しているのは府中市にあるさくら市場館、車返店の2店舗のみであり、所沢、立川、狛江、国領(調布市)、国立に展開していた店舗は撤退した。また、昭島魚河岸店は2013年(平成25年)2月10日に閉店している。かつて存在、既に閉店したパチンコ店 府中市に東京競馬場がある土地柄、1953年ごろよりおもに会社名義で競走馬を所有するようになった。馬券をよく買っていた兄・演植は生前、馬主になるときに父親から反対され「馬は持っても、馬券は買うな」と言われて悩んだと語っている。中央競馬におけるさくらコマースの勝負服の色はピンクがベースで、競走馬名に「サクラ」の冠名を用いていることから、のちに同社の所有馬の総称としてサクラ軍団という名称が生まれた(なお、このような例はメジロ・マチカネ・マイネルなど、他にもある)。社名から冠名を取っている。軍団最初の勝ち馬となったのはハヤサクラという名前のアングロアラブだった。その後次第に頭数も増え、重賞クラスで健闘する馬も登場し始め、1973年にサクライワイが初の重賞勝ち馬となった。以降GI優勝馬を含め、数多くの重賞優勝馬を所有している。かつてのサクラ軍団の競走馬は美浦の境勝太郎厩舎に所属し、境勝太郎の娘婿でもあった小島太が騎乗することが非常に多かった。これは境、そして小島が全演植と親しかったことが影響している。しかしサクラのすべての馬が該当したわけではない。サクラショウリやサクラスターオーは境厩舎の馬ではなかったし、サクラスターオーには小島はほとんど騎乗していない(そのころの小島が、早坂太吉率いる「モガミ軍団」に気が移りかけていたという事情があり、それに対して全が不快感を示した結果)。また境の息子の境征勝の厩舎に所属する競走馬もいた。騎手については小島のほか、東信二や境勝太郎厩舎所属の木藤隆行や高橋明らも多く起用されていた。境勝太郎が調教師を引退し、小島が調教師に転向した1996年ごろからは「サクラ=境・小島」という大方の構図は必ずしも当てはまらなくなった。その要因のひとつとして、小島がさくらコマース以外の馬主(西川清など)の所有馬を多く管理するようになったことが挙げられる。現在、さくらコマースの所有馬は栗東、美浦を問わずさまざまな厩舎で管理されている。またサクラ軍団は地元の東京競馬場での勝利が目立ったが、境勝太郎の調教師引退以降は東京競馬場での重賞競走に縁がなく、サクラキャンドルが府中牝馬ステークスを勝利したあとサクラセンチュリーがアルゼンチン共和国杯を勝利するまで9年の空白期間があった。サクラといえば牡馬。そして「サクラ○○○オー」という名の馬が多い。サクラ軍団の活躍馬には伝統的に豊かなスピードをもつ競走馬が多く、サクラユタカオーやサクラバクシンオーなど距離ごとのレコードホルダーとなった馬もいる。伝統的にステイヤー育成に力を入れたメジロ牧場との対比として「スピードのサクラ、スタミナのメジロ」という対比がなされたこともある。2009年7月26日終了時点で中央競馬重賞74勝。
出典:wikipedia
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