株式会社 忠実屋(ちゅうじつや、"Chujitsuya Co., Ltd.")は、かつて首都圏を中心にスーパーマーケット等を展開していた日本の企業。1994年3月1日、株式会社ダイエーに吸収合併された。父が織物買継商の検査官の下で五人兄弟の長男として埼玉県深谷市に生まれた高木国勝(以降:国勝)は尋常高等小学校を卒業後、織物について学ぶ為、桑都と言われていた東京都八王子市に足を運び織物の行商を行っていた。丁度その頃、キリスト教の教えに共感し入信。深谷にも戻っていたが父の死後は八王子の織物会社に入社した。更には遠藤夏子(以降:夏子)と出会い1934年12月22日に結婚した。夏子は警察官の父の下、九人兄弟の長子として山形県東置賜郡大塚村に生まれた。国勝と同様にキリスト教の教えに共感。東京から夏期伝道の為、山形に訪れた牧師に教えを乞い東京にやって来たのであった。結婚後、国勝は勤めていた会社を辞め、商人として歩むこととなる。同じくキリスト教に入信していた漬物屋「いろは屋」の主人から暖簾を借りて八王子市周辺で行商を始めたのが忠実屋の原点であった。いろは屋は当時、関東1位・2位を争う漬物屋として知られていた。当時の日本経済は満州事変や国際連盟脱退などの影響もあり劣悪で売上低迷に喘ぐが、苦肉の打開策として自家製の煮豆を販売したところ売上も上がり評判となった。ところが、本家のいろは屋側から漬物のイメージダウンに繋がる恐れがあるので煮豆の販売を止めるよう抗議を受けた。国勝は夏子と相談を重ね、いろは屋の暖簾を返上し40年に渡り使用される事となる「忠実屋」の名称が誕生した。この屋号は後述の通りキリスト教の正典の一節から取られている。1943年10月に国勝が肺結核で「これまでご苦労だった」と夏子に遺言を残して死去、1年後の終戦を以って忠実屋を再開させた。焼野原と化した八王子市八幡町の映画館跡地に10坪の商店を建設した。一方、後に養子として迎えられる事となる伊藤吉友(以降:高木吉友または吉友)は生粋の八王子出身で戦時中は明治大学在学中であったが1944年12月25日に赤紙が届き、静岡のはやぶさ36連隊に入隊。満州等に出兵したが1945年8月15日の終戦を以って日本に帰国しており、友人とともに八王子でコンニャク屋を始めた。これが地元で瞬く間に評判となり夏子の耳にも入ってくるようになった。夏子はコンニャク屋で吉友と接することが多くなり養子として欲しいと思うようになった。こうして1947年に吉友は高木家に養子として迎え入れられ、更に養女として後に吉友と結婚する事となる、夏子の末子の妹であったシン子を受け入れた。なお、一部雑誌や報道等で吉友が創業者として紹介されることがあるが厳密には国勝が商店としての忠実屋の創業者で、吉友は会社としての忠実屋の創業者である。以降、有限会社を設立し、スーパーマーケットチェーン路線に進み首都圏全域で店舗展開。スーパー事業以外にも不動産・旅行代理店・家電量販店等の事業にも乗り出した。更には外国への進出も行い、忠実屋はすさまじい勢いで成長していく。バブル崩壊後、売り上げが下落傾向にあった忠実屋だったが、1989年に秀和が同社の株を大量に買い占める事件が発生(忠実屋・いなげや事件)。後が無くなった忠実屋は、創業者の吉友の「自主独立を貫く」という強い意志を尊重するべく他会社との連携は一切していなかった。1991年6月に吉友が心不全で死去すると事態は一変した。吉友の子息であり長男の高木國夫(当時副社長)が父の吉友の意思とは逆の現実的な路線(他会社との連携)を取ることを認め、同年12月に大手スーパーのダイエーと資本・業務で提携することに合意した。ダイエーの中内功(当時)は「忠実屋から提携の申し入れがあり、すぐに決定した」とのことだった。しかし過半数の忠実屋株を秀和が所有していた為、ダイエーは時期を見て同グループのマルエツと共に同社株を公開買い付け (TOB) を行い見事成功。1992年3月1日に正式にダイエーの系列会社となった。筆頭株主はダイエーでは無く、1772万7000株を取得したマルエツだった。これにより一連の事件は事実上の終焉を迎えた。ダイエーの系列会社になったとはいえ、創業者の吉友が語っていた「自主独立を貫く」という方針で忠実屋は様々な対策を取るも、1993年2月期の利益は大幅減益という惨憺たる結果になり、株主・社員に迷惑は掛けられないと社長の谷島は、1993年6月にダイエーの中内に合併話を持ちかける。当時、ダイエーは長期に渡り合併を模索していた九州のユニードダイエーと、沖縄で単独勢力で継続してきたダイナハとの3社合併を1994年に実行することを計画していた。ダイエーは、忠実屋も加えた4社での合併を決定。1994年3月1日にも施行することを決定した。合併の準備としてダイエーで使用されているOMCカードを忠実屋でも使用可能にしたり、情報・店舗等の組織コードをダイエー基準に統一、物流センターの統一と配送地域の見直し、そして忠実屋の商号からダイエーの商号に変更する作業を行った。また、高木一族が所有する忠実屋株をダイエー側が取得し、ダイエーグループのサカエ(現:グルメシティ近畿)に売却する等、合併準備が着々と進んでいった。合併まで約1ヶ月と迫った1994年2月3日に、忠実屋が長らく家電製品の取引を松下電器産業(現:パナソニック)と行っていた為、合併により存続することとなるダイエーが松下電器産業の子会社であった松下ライフエレクトロニクス(現:パナソニック コンシューマーマーケティング)と取引契約に調印した。ダイエーと松下電器との間では、ダイエーが松下製品のテレビを破壊的な価格で販売する事にパナソニック創業者である松下幸之助が強く反発し、ダイエーもそれに反発する形で松下電器の製品を不買する運動を続けた過去があった(ダイエー・松下戦争)。この調印で約29年に渡る対立に終わりを告げ両社和解。今後、ダイエーグループでも段階的ではあるが松下製品を店頭に並べることとなり、忠実屋は1戦争の仲立ちをしたこととなった。1994年3月1日にダイエー・ユニードダイエー・ダイナハと合併。約59年の歴史に幕を下ろした。1993年12月の店舗数は73店舗であった。その後、ダイエーが経営不振に喘ぎ多くの店舗が閉鎖になる中で、忠実屋の1号店である八幡町店はダイエーからグルメシティに業態転換し2011年現在も現存している。合併後に、忠実屋の系列会社はダイエーの系列会社に統廃合され完全独立した。社名の由来は上述の通り、キリスト教の正典である新約聖書の一節から来ている。マークは、いろは屋時代から一貫して○に高が入ったものを使用していた。これは創業者の高木の高から取ったものである。忠実屋の店舗が増えて行くに連れて客から旧シンボルマークが「百貨店の高島屋と関係があるのか」という疑問の声が増えたのがマーク更新の決定打だったとされる。背景を朱一色で表しマーガレット(花言葉は忠実)の花をモチーフとしたものとなっている。1994年、ダイエーとの合併に伴い、店名も「ダイエー」(現在の「イオン」)等に変更され、名実ともに忠実屋は消滅した。仕入れルート等も一新されており、ナショナルチェーンとしてのスケールメリットが追求されたが、その後には閉鎖した店舗もある。東京都埼玉県神奈川県千葉県山梨県静岡県海外一部を列挙。社名は当時のもの。
出典:wikipedia
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