マチカネフクキタルは日本の元競走馬、元種牡馬。1997年の菊花賞優勝馬である。半兄にセントライト記念2着馬アサクサキャノン(父:ノーザンディクテイター)がいる。なお、英字標記が「Machikane Fukukitaru」でないのは、「途中のスペースを含めて18文字以内」という馬名の英字標記ルールに抵触するためである。※馬齢は旧表記に統一する。マチカネフクキタルは1994年5月22日、北海道浦河郡浦河町の信成牧場にてアテナトウショウの第8仔として、誕生した。フクキタルの3歳上の全兄は牧場に訪れた調教師や馬主にも評判になるほどの仔馬だったが、当歳の秋頃放牧中に頚椎を痛め、治療の甲斐もなく最終的には安楽死の処置を採らざるを得なかった。そんな理由もあってか、3年後に同じ父クリスタルグリッターズを配合され誕生したフクキタルは、馬っぷりは兄には劣ったものの、健康で順調に成長していった。フクキタルがデビューしたのは1996年11月30日の阪神の新馬戦だったが、3着に終わった。続く、折り返しの新馬戦でも4着に敗れた。3ヶ月の休養をはさんで、4歳になったフクキタルは翌1997年3月の阪神の未勝利戦で初勝利をあげた。その後、500万下条件のムーニーバレーRC賞を勝ち上がったフクキタルは、日本ダービーへの優先出走権をかけ、ダービートライアルのプリンシパルステークスに出走。このレースでサイレンススズカの2着に入り、日本ダービーへの切符を手にした。日本ダービーでは、逃げきりで二冠を達成したサニーブライアンから0.5秒差の7着となった。ダービー後、フクキタルは福島のさくらんぼステークス(900万下条件戦)に出走。単勝1.4倍の1番人気に応えて勝利し休養に入った。秋になり、フクキタルは神戸新聞杯から始動した。レースでは驚異的な追い込みで、逃げるサイレンススズカをゴール前で差し切って勝利を収めた。続く京都新聞杯では皐月賞と日本ダービーで1番人気に推されたメジロブライト等がいる中で1番人気に推された。レースでは不利も蒙りながら、1番人気の期待に応え、2着のパルスビートに4分の3馬身差で勝利し、菊花賞のトライアル2レースを連勝。菊花賞の有力候補へ躍り出た。ところが、本番の菊花賞ではフクキタルは3番人気に甘んじていた。これは、フクキタルの父クリスタルグリッターズが短中距離馬と考えられていたことと、母の父がトウショウボーイという背景から血統的に長距離戦には向かないとの見方が強かったためであった。だが、実際のレースでは、フクキタルは距離不安説を一掃するかのようなレースぶりを見せて見事に優勝、900万下条件戦の勝利から4連勝でのGI制覇だった。当時、菊花賞の実況を担当していた関西テレビの杉本清アナウンサーは「神戸、そして京都に次いで菊の舞台でも福が来た!」と実況した。また、フクキタルの馬主であった細川益男。と、生産牧場である信成牧場にとっては、初めてのGI級レースでの勝利となった。菊花賞馬になったフクキタルだったが、古馬になってからは一転して、裂蹄など蹄の病気に悩まされ、順調にレースが使えなくなり、勝てなくなった。5歳時には金鯱賞6着、鳴尾記念8着、有馬記念13着と全て着外に終わった。6歳時には京都記念2着、産経大阪杯2着で復活の狼煙を上げたが、春の天皇賞は7着、宝塚記念は5着に終わり、完全復活とはいかなかった。そして、7歳時に金鯱賞10着を経て出走した2000年の宝塚記念8着後、フクキタルは調教中に右前浅屈腱炎を発症し引退。細川自身が個人所有するという形で、フクキタルは種牡馬となった。結局、フクキタルは菊花賞後、1つも勝つことができなかった。フクキタルは、父を同じくするアブクマポーロが2005年に種牡馬を引退したこともあり、日本国内では稀少なクリスタルグリッターズの後継種牡馬であったが、実績を持つ活躍馬としては中山グランドジャンプ(J・GI)2着馬のリワードプレザンを出しているものの、平地では目立った成績を残した産駒は出なかった。2004年以降は種付け頭数が2頭以下という状態が続き、2008年以降は産駒が生まれなかった。その結果、2010年の種付けシーズン途中でフクキタルは種牡馬を引退した。現在、フクキタルは山梨県の小須田牧場で余生を過ごしている。※牝系は「シラオキ系」と呼ばれる、日本国内における名門の血統である。
出典:wikipedia
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