安見 宗房(やすみ むねふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。畠山氏の家臣。交野城、飯盛山城主。子に野尻宗泰。安見信国、勝之父子、安見右近・新七郎父子は一族であるが別流。大和国人越智氏の家臣・中村圓賀の子で、安見氏の養子に迎えられたといわれる。軍記物などの史料では直政(なおまさ)とされているが、古文書で確認できる名は宗房である。当初は大和国人である鷹山弘頼と共に行動しており、山城上三郡に影響を及ぼしていたことから、当初は木沢長政の配下にあり、太平寺の戦いの前に細川晴元方に転じ、その後畠山家に仕えたと推測されている(弓倉弘年・小谷利明らの研究による)。天文20年(1551年)5月5日に畠山家を牛耳っていた遊佐長教が萱振賢継に暗殺された。賢継は新たな河内守護代として長教の弟根来寺松坊を擁立しようとしていたが、宗房は翌天文21年(1552年)2月21日、賢継を飯盛山城での茶会の席に招き寄せて暗殺するなど萱振氏や野尻氏を謀略によって滅亡させた。そして、遊佐一族である遊佐太藤を擁立し、自らの地盤を固めていった。次いで長年の協力者であった鷹山弘頼も殺害し、畠山高政を守護に擁立し丹下盛知とともに家中の実力者となった。また滅ぼした野尻氏には息子を養子として入れ、野尻宗泰と名乗らせている。太藤が高政に遠ざけられるとその権勢は増していった。なお、宗房を守護代とするのは『足利季世記』などの後世の軍記にしか見られない。『天文日記』では畠山氏における宗房の地位は遊佐・丹下・走井といった重臣層に比べて、少なくとも本願寺からは明らかに格下として扱われており、いくら宗房に力があるとはいえ守護代になれる家柄ではなかったと思われる(代わって守護代になったと伝えられる湯川直光についても同様)。小谷利明の見解ではこの時期に守護代に近い立場についていた人物として遊佐太藤の名を挙げている。天文22年(1553年)の室町幕府13代将軍・足利義輝と三好長慶の対立の際には三好方に属し丹下盛知と共に援軍に赴いている。永禄年間には狭山池の治水工事を計画している。しかし、主君・畠山高政との対立が徐々に表面化し、永禄元年(1558年)には高政が紀伊に出奔。翌永禄2年(1559年)8月、三好長慶の援助を受けた高政と戦いこれに敗北し大和に没落する。しかし高屋城に戻った高政はやがて長慶と不和になり、翌3年(1560年)5月には和睦して復帰する。以降は高政に従い、永禄3年での三好氏との戦い(敗北して高政と没落)や、久米田の戦い・教興寺の戦いにおいても協力している。将軍・義輝が暗殺された永禄の変が起きた際には、早々に義輝の弟である覚慶(足利義昭)の擁立の支援を求め、越後国の上杉謙信に畿内情勢を報告するなど、幕府のために働いた。またこの頃から遊佐姓を名乗るようになっている。三好三人衆と松永久秀が対立すると、畠山高政・秋高兄弟と共に久秀に味方し河内復帰を目論むも敗れている。義昭が織田信長に擁立され上洛し将軍に就任すると、高政・秋高と共にこれに従い、ようやく河内へ戻った。また「言継卿記」によればこの際に幕府奉公衆に取り立てられている。永禄12年(1569年)、遊佐信教と共に高政の弟・秋高(政頼)を当主に擁立し、再度高政を追放したとされるが、弓倉弘年の指摘によるとこの追放劇は『足利季世記』などの軍記物しか見られず、また内容も永禄元年の争いの焼き直しであり事実ではないと思われる。義昭上洛以降は高政・宗房共に河内支配に関わる形跡が少なくなり、それぞれ穏便な形で秋高・宗泰に家督を譲り在京していたのではないかと思われる。また元亀2年(1571年5月に交野城にいたところ、密かに信長を裏切っていた松永久秀によって多聞城に呼び出され、自刃させられたとされるのは安見右近であり、宗房とは全くの別人である。
出典:wikipedia
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