田中 希代子(たなか きよこ、1932年2月5日 - 1996年2月26日)は昭和時代に活躍した日本のピアニスト、ピアノ教育家。田中は、ジュネーヴ国際音楽コンクール(第14回1952年)、ロン=ティボー国際コンクール(第5回1953年)、ショパン国際ピアノコンクール(第5回1955年)の3つの国際コンクールの日本人初入賞者として知られる。30歳代後半に難病により引退したが、その後は後進の育成に努めた。また、現役時代から当時の皇太子妃(現美智子皇后)から慕われたピアニストとしても知られる。海外での演奏活動が長かった為、海外のほうが知名度は高く、現在でも「東洋の奇跡」と呼ばれ、支持を得ている。国内での田中の認知度が下がるきっかけの一つとなったのが、田中が引退を余儀なくされたのと前後してはなやかに登場した中村紘子が多くの聴衆の支持を獲得したことである。奇しくも中村は、一時期田中が師事した井口の妹である井口愛子に学んだ経歴を持つ。また中村が、1965年の第7回ショパンコンクールで第4位入賞したのち、自分がショパンコンクールの日本人初入賞者であると言い続けてきたたことにより、本当の初入賞者である田中の存在がないがしろにされ、国内での印象が希薄になってしまったといわれる(なお、中村は現在も自身のホームページのプロフィール。田中は生前「自分は過去の人間だから」と音源の復刻に消極的だったが、1996年に山野楽器から記念CDが発売されたことで再び認知されはじめ、2005年1月に音楽評論家の萩谷由喜子が『田中希代子―夜明けのピアニスト』を出版した。キングレコードは2006年2月22日に田中の没後10年特別企画として2枚組CDを発売。翌2007年にも次々と音源を復刻した。幅広いレパートリーを持ち世界中で年間120回を超すコンサートをこなす、文字通り日本の音楽界の大スターとなった田中であったが、積極的に演奏活動を展開した反面、レコード会社に遺した正規録音は少ない。東芝レコードのピアノ小品集と、キングレコードのドビュッシー作品集、モーツァルトのピアノソナタ第11番、コロムビア・レコードのソナチネ集など、全て合わせても僅か200分足らず(CD約2枚半相当)である。放送用音源録音も、特にピアノ協奏曲では、現存が確認されているスタジオ収録のものは、発病の僅か半年前の1967年5月に東ドイツで収録されたモーツァルトの24番(クルト・マズア指揮ベルリン放送交響楽団)のただ一曲のみで、現在復刻発売されている音源の大半が、ライヴで録音されたものか、NHKやヨーロッパの放送局に残された放送用音源である。このうちキングレコードに遺したドビュッシー作品集(1961年、ステレオ)は絶品中の絶品と評価され、「月の光」、「亜麻色の髪の乙女」は胎教をテーマとするアルバムに度々採用されているほか、亜麻色の髪の乙女はテレビアニメーション「彼氏彼女の事情」のBGMにも使用された。このドビュッシー作品集はモーツァルトのピアノソナタ第11番の録音とともに文部省改訂学習指導要領準拠の中学校音楽科鑑賞教材に指定されている。幼い頃のあだ名は「タアチン」、好きな色は緑色、レモンティーが大好物であった。尊敬していたピアニストはクララ・ハスキルとヴィルヘルム・バックハウス。子どもの頃から運動神経は抜群で、特に縄跳びが得意だった。少女時代は恥ずかしがりやで、クラスメイト達にピアノの披露をせがまれると、「そこで死んだふりしてて」と言って目を閉じてもらったうえで披露したという。パリでの師であるレヴィは、田中の演奏に感動し、初めて演奏を聴いた第一声は「トレビアン!」だったという。彼は、安川に宛てた手紙で、彼女の演奏を「深みがあり、幽玄である。降参だ」と賞賛している。また、中村紘子は田中の演奏を力強く情熱的な演奏だったと回想している。日本の代表的な音楽評論家であった野村光一は、著書『ピアニスト』(1973年)で安川加壽子、井口基成、柳川守とともに田中を日本を代表するピアニストとして挙げている。朝吹登水子はパリで田中の演奏に触れ、のちに自伝的小説『もうひとつの愛』で「杉本明子」として登場させており、「繊細な感受性をその華奢な体から放出しており、美しい白い指をしていた」と述べている。テンポはほとんど揺らさず、速い曲ではとことん速目のテンポだが、表情豊かで、かつどんなに速くても一音一音がはっきりと聞き取れるほど正確な打鍵が高い評価を受けていた。また、田中は「音楽は自己表現」と考え、特にこれといって奏法にはこだわらず、人によって指の長さや太さ、重みなど全てが違うということに着目し、「どのような弾き方か」ではなく、「どのような音で表現するか」に重きを置くという独自の演奏スタイルを貫き、表現力重視のピアニストのさきがけとなった(当時の音楽界は奏法を重視する世界だった)。「ある程度の基礎は必要だが、結局はそれ以上のことを自分が見つけて行くことが重要」とも述べている。独自の運指法も門下生に評判だった。「極限まで耳を澄まし、自分の出した音を確認しながら弾く」ということ。レッスンは、田中が実演が不可能な為、口頭のみで行われたこともあり、その深い内容を理解し把握するには大変な集中力を要求されたという。「小さい子は見ない」という田中が例外的に9歳の頃から時折レッスンをつけていたという愛弟子・田部京子は「先生は、お弾きにならないにもかかわらず、楽譜に指づかいをサーッと流れるように書いてくださるのですが、それは普通ではとても思いつかないようなものでした。でも、その通りに弾いていくうちに、やがて研究し尽くされたベストな指づかいであることが実感されてくるのです」と語っている。また、ある音から次の音へ移る間、前の音が消えてしまうぐらい遅いテンポで弾く練習をしたことも忘れがたいという。
出典:wikipedia
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