高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)は、武田勝頼と徳川家康の間で戦われた高天神城の2度の攻城戦を指す。高天神城は元は今川氏の支城であったが、桶狭間の戦いから駿河侵攻にかけての今川氏の衰退・滅亡によって城主・小笠原氏興は徳川氏に付いた。遠江・駿河の国境近くにある高天神城は、徳川氏にとって遠江支配の重要拠点であった。武田氏は駿河平定後、三河・遠江方面へ手を伸ばし始め、そのため徳川氏とは小競り合いが続く。元亀2年には、武田信玄が2万5000といわれる大軍を率いて三河・遠江に侵攻し、その際に高天神城を攻め同日撤退したといわれる。その翌元亀3年の西上作戦における遠江侵攻では、高天神城と徳川氏の本拠点・浜松城とを結ぶ遠江の要所・二俣城が陥落し(二俣城の戦い)、高天神城は孤立することになる。しかし、この時点ではまだ徳川氏の拠点として機能していた。信玄の死後、後を継いだ武田勝頼も遠江支配強化のために高天神城を狙い、遠江支配の要として武田氏と徳川氏は高天神城を奪い合うこととなる。元亀4年/天正元年(1573年)4月12日、武田信玄は「西上作戦」から三州街道を甲府へ帰陣する途中、信濃伊那郡駒場で死去する。信玄の死は秘匿され、子息の武田勝頼が武田氏を継いだ。ところが、武田氏が体制を整える間に、織田信長は反撃に移行。同年7月18日に降伏した将軍・足利義昭を放逐すると、朝廷へは改元を働きかけ天正元年とした。同年8月には越前の朝倉義景と近江の浅井長政(信長の義弟)を相次いで滅ぼした。織田氏と同盟関係にある徳川家康も信玄の死を機に反撃に転じ、長篠城の奪回や、武田方の作手亀山城主奥平貞能を寝返らせるなど三河における失地回復を進めていた。天正2年(1574年)5月、父以上の勢力拡大を目指す勝頼は、2万5000人を号する大軍を率いて、遠州東部における徳川方の重要拠点である高天神城に攻めかかった。城方は徳川軍の勇将・小笠原長忠以下1,000である。長忠は武田軍襲来と同時に家康に救援を求めた。しかし、信州から南下する恐れのある武田の別働軍に備えねばならぬ上に、家康軍の総兵力は1万程度に過ぎず、倍以上の武田軍を相手にはできない。そこで家康は盟友・織田信長に救援を要請する。信長は5月5日から賀茂祭に出席していたが、領国に課税のことを命じると、5月16日に京都を出立し。5月28日に岐阜に帰還した。この間に高天神城は、武田軍による猛攻で西の丸を失陥し、兵糧が窮乏して落城の危機に陥っていた。6月14日、ようやく信長の援軍が岐阜を出陣し、17日に三河の吉田城 (三河国)に到着した。だが翌18日、城内で高天神城を本拠とする国衆・小笠原氏助(信興)が武田勝頼に内通して反乱を起こし、長忠は持ちこたえられずに降伏した。こうして、高天神城は武田軍の手に落ちた。19日、信長の元に城陥落の報が入り、浜松から家康がやってきて礼を述べた。信長は勝頼と戦えなかったことを無念に思い、家康に兵糧代として大量の黄金を贈り(2人がかりでようやく持ち上げられる程の量の黄金を詰めた革の袋を2個分、馬に載せて贈ったという)、21日に岐阜に帰還した。高天神城は、かつて武田信玄が大軍を率いてもってしても落とせなかった要塞であった。甲陽軍鑑によれば武田勝頼はこの時から有頂天になって、家臣の言う事を聞かなくなったという。この事からこの城を落とした実績から勝頼は自信過剰になり、後の長篠の戦いでの敗戦の原因になったとする説がある。その一方で、勝頼は偉大なる父が落とせなかった城を落とすことで、父に勝る武略を示したいという意図があり、結果的にそれに成功した事から、その実績をもって家臣統制を強めたという解釈もある。天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍の前に大敗を喫した。これ以降、二俣城・犬居城などにおいて徳川方の反攻が始まり、殊に諏訪原城を奪取したことで大井川沿いの補給路を封じた。そして横須賀城など多数の付城を築いて高天神城への締め付けを強化し、武田方にとって高天神城の維持は利点の裏で補給線の長さから負担の大きなものともなった。天正8年(1580年)10月、徳川家康は5000人の軍勢を率いて高天神城奪回を図った。家康は力攻めではなく、城を囲んで周囲に鹿垣をつくり、兵糧攻めを行った。当時の城将は今川旧臣の岡部元信だったが、武田勝頼は甲斐から援軍を送ることができなかった。勝頼が高天神城を救援できなかった事情について、織田側の史料では『信長公記』は、勝頼は信長の武勇を恐れたためとしている。一方、武田側ではまず勝頼は天正6年(1578年)3月の越後国における御館の乱後に上杉景勝と甲越同盟を結んだため、後北条氏との甲相同盟が破綻し、駿河において北条氏政の攻勢を受けていた点が指摘される。北条氏政は織田・徳川氏と同盟を結び、家康は駿河西部における攻勢を強めていた。また、勝頼は信長の子で武田家に人質として滞在していた織田信房(源三郎)を天正8年3月に織田方に返還し、信房を介した信長との和睦を試みていた(甲江和与)。このため、勝頼は高天神城に救援を送ることが織田方との和睦に影響することを懸念していたとも考えられている。なお、『甲陽軍鑑』では勝頼は高天神城救援の意志を持っていたが、信長を刺激することを恐れた一門の武田信豊・側近の跡部勝資が反対したとする逸話を記しているが、これは確実な史料からは確認されていない。天正9年(1581年)1月3日、織田に勝頼出陣の噂が届き、これに備えるべく織田信忠が清洲城に入った。しかし勝頼が出陣した形跡はなく、これは虚報だったようである。なお信長はこの城攻めにあたり、家康に対して「高天神城の降伏を許さないように」という書状を送っている。信長は勝頼が高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようである。また、書状の中で信長は「武田四郎分際ニては、重而(かさねて)も後巻成間敷(うしろまきなるまじく)候哉」と、勝頼はとうてい救援に来られないだろうと読んでいたようである。この包囲によって城兵の大半が餓死。3月25日午後10時頃、武田軍はついに城から討って出るが徳川軍はこれに応戦し、岡部元信と兵688の首を討ち取った(『信長公記』)。この戦いは武田氏の威信を致命的に失墜させた戦いといえた。勝頼は岡部元信が救援依頼を出したにもかかわらず援軍を出さず、結果として元信をはじめとする多くの将兵を見殺しにした。 翌年における武田攻めで、御一門衆である木曾義昌や穴山信君、譜代家老の小山田信茂の造反の一因になったとまで言われている。
出典:wikipedia
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