木食応其(もくじきおうご、天文5年(1536年)- 慶長13年10月1日(1608年11月8日))は、安土桃山時代の真言宗の僧で、外交僧・勧進僧・連歌学者。法名(法諱)を応其(應其)、字を順良、房号を深覚と云い、深覚坊応其と称す。木食は木食行を修めた者への称で、木食応其は通称。応其の出家以前に関して明らかにする資料は、ほとんどないとされている。近江国の出身とされており、小瀬甫庵の信長記には「江州守山辺」としている。中田法寿の説では応其の父は佐々木義秀で、父とともに六角義賢の近江観音寺城に籠って織田信長に抗戦。永禄11年(1568年)に豊臣秀吉に攻め滅ぼされ、大和国高取城の越智氏を頼ったとしているが、和多昭夫は六角氏が織田氏に反攻している中で佐々木氏一族の応其が一人大和に逃れることは考えにくいとしている。高野山通念集では藤原氏であるとしている。応其の編した『無言抄』の奥付には、応其が出家したのは「亡君越智淡路守の追善」の為であるとしている。また、応其には俗体の時にもうけた娘がいたことがわかっており、名を「こま」という。高野山に登ってからもしばしば手紙のやり取りをしていた記録が残されている。天正元年(1573年)に38歳で高野山において出家し、宝性院の勢誉から受戒、名を応其と改めた。小瀬甫庵の信長記では出家は25~6歳の頃であるとしている。また高野山入山のおり、十穀を絶つ木食行を行うことを発願している。応其は「客僧」という立場であり、学侶や行人、高野聖とも異なる存在であった。また密教大辞典では天下人から厚遇を受けた政遍からも戒を受け、仁和寺宮仁助法親王より三部の大法を受け、阿闍梨にのぼったとされている。業績を重ねる一方で連歌の名手でもあり、里村紹巴と親交をもった。天正10年(1582年)に織田信長が高野山攻撃を行った際には、応其らは小田原弥勒堂にこもり、太元法を修して信長の調伏に当たったとされる。その最中信長は本能寺の変で死亡し、高野山攻撃は中止された。天正13年(1585年)豊臣秀吉は根来寺・粉河寺・雑賀を攻略した後、高野山に対して降伏を求めた。この際応其は南院宥全、遍照尊院快言とともに高野山使僧として派遣され、秀吉からの降伏条件の書を受け取った。高野山側はこれを受諾し、応其と良運・空雅が返書を持って秀吉の元を訪れた。高野春秋編年輯録では、良運は学侶を代表し、空雅が行人代表であり、応其は空雅に従ったものとしている。応其が使僧となった理由には、応其が秀吉と旧知であった説、高野説物語のあげる石田三成と旧知の間柄であった説、連歌上の交友関係が間を取り持った説がある。これ以降、秀吉との間柄は急速に進展する。天正15年(1587年)応其は秀吉の使僧として千利休らとともに島津氏との和睦交渉で力を尽くした。留意すべきは、同年9月22日に上方で開催された連歌の会に応其、細川幽斎、連歌師の里村紹巴、里村昌叱らに混じって、島津義久や重臣の伊集院忠棟が参加している点である。その後、秀吉に協力して高野山に金堂や大塔を建立し、高野山の再興にあたった。天正18年(1590年)には高野山内に興山寺 (廃寺)を開基した。その際、秀吉が後陽成天皇に奏請して勅額が掲げられるとともに、「興山上人」の号を賜った。「興山寺」の寺名は、高野山の「中興開山」から来ている。また、同年安楽川荘に同名の興山寺も開基している。文禄2年(1593年)には秀吉の母・大政所の菩提所、剃髪寺(青巌寺)を開基した。興山寺 (廃寺)と青巌寺は現在の総本山金剛峯寺の前身となっている。その他にも応其は全国を行脚し寺社の勧進につとめ、造営に携わった寺や塔は97にのぼるとされる。その中の顕著なものを挙げると、応其は多くの高野衆や各地から集めた何百人もの大工を率いて寺社の大規模造営・整備にあたっていた。豊臣政権の行政機構の中に組み込まれていたわけではないが、実質上寺社造営における豊臣家の作事組織として機能していた。太田直之氏の研究(『中世の社寺と信仰』)によれば、とくに京都の方広寺大仏殿の造営において「木食内衆」「御内」などと呼ばれ、応其との諸連絡や取次、応其の意を受けての文書発給や造営料の管理などを行った奉行は50人ほどいて、大きくは応其と高野山をつなぐ行人系奉行と、修造を専門的に行う穀屋系奉行の2系統に分かれていたと指摘する。前者にはのちに応其の後継者となる文殊院勢誉や応其と対立したため殺されたとされる理徳院がいた。一方、後者を代表する人物として遍照院覚栄が挙げられ、造営事業の実務面を覚栄が一手に引き受けていたとする。そんななか、学侶側からは太閤検地の際に応其が朱印状を隠匿したという嫌疑をかけられ、応其の死後に至るまで紛争の元となった。しかし応其の高野山内での発言力は強く、行人側は応其に接近していった。文禄4年(1595年)の秀次事件では寺院法により豊臣秀次の切腹を阻止しようと抗議したが、青巌寺で秀次の切腹を行なわさせる(仏教五戒のうちの殺生を行う)ことを認めざるを得ない苦しい立場に追いやられた。慶長3年(1598年)には秀吉が没して後ろ楯を失い、翌慶長4年(1599年)には青巌寺住職の座を勢誉に譲った。慶長5年(1600年)、 関ヶ原の戦いでは豊臣家との縁の深さから伊勢国の安濃津城(守将:富田信高、分部光嘉)や近江国の大津城(守将:京極高次)における開城交渉にあたった。しかし西軍に通じたと疑われ、戦後は近江飯道寺に隠棲した。その後は慶長8年(1603年)に連歌の規則や作法を記した『無言抄』を出版した後、慶長13年(1608年)10月1日に入定した。行年73。辞世は「あだし世を めぐり果てよと 行く月の きょうの入日の 空にまかせん」。高野山奥の院に程近い場所に廟所がある。平成20年(2008年)は応其の没後400年遠忌に当たり、和歌山県立博物館にて、特別展が開催された。
出典:wikipedia
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