長崎バスジャック事件(ながさきバスジャックじけん)とは、1977年(昭和52年)10月15日に長崎県で発生したバス乗っ取り(バスジャック)事件。この事件は2人の犯人によって起こされた。犯人の1人は射殺され、人質は全員救出された。1977年10月15日午前、長崎県平戸発佐世保・大村経由長崎駅前行きの西肥自動車の路線バス(三菱ふそう車)が途中の大村市内を走行中、銃や爆弾を持ち「阿蘇連合赤軍」を名乗る2人組の男に乗っ取られた。その後、バスは給油のため長崎市内のガソリンスタンドに立ち寄ったが、スタンド従業員からの通報を受けた長崎県警察はバスのエンジンスターターを不作動にする措置を行い、バスを包囲した。犯人たちは乗客5人の解放と引きかえに食料(寿司30人前)や水(コーラ30人前など)、そして毛布50枚を要求していた。また「法務大臣の瀬戸山三男と新自由クラブ(当時の野党)代表の河野洋平及び、政治評論家の細川隆元を連れてこなければ交渉には応じない」などと主張した。しかし、この時に犯人らは自分達の事を「阿蘇連合赤軍」と極左風の団体名を名乗っておきながら右翼的な論評の目立つ保守派評論家であった細川の事を「細川隆元先生」と呼ぶなど、思想的に考えて支離滅裂と思わざるを得ない発言が目立ったことから、警察では早い時点で犯人達は赤軍派とは無関係の集団だと判断していた。実際、犯人らは赤軍派を名乗っていたが、政治思想とは何ら関係なく、身代金を狙った場当たり的な犯行であった。警察は犯人らに対して説得をおこなったが、人質の体力が限界に達したとして、事件発生後18時間経過した翌16日午前4時25分に警察官の一人が説得しながら最終的に「撃つなら俺を撃て、撃つなら撃ってみろ!」と犯人を挑発したところ、主犯格の男が手製爆発物を投擲、爆発物が爆発した瞬間に突入隊は一斉にバス内部へ突入した。3名の警察官が合計7発を発砲、この銃撃で主犯は被弾し20分後に死亡、もう1人の犯人は重傷を負った。人質16人は全員無事に救出された。生き残った犯人には懲役6年が言い渡された。犯人射殺となった人質事件の解決は1970年に発生した瀬戸内シージャック事件以来2例目となった。この事件は長崎放送とテレビ長崎が、突入から逮捕、人質救出までの様子を全国に中継しているが、後側からズームカメラで写した映像がVTR保存されており、この映像は鮮明に写っている(近距離の映像は、16mmフィルムで撮影されているため不鮮明である)長崎放送は当日夜にカージャックを題材にしたゴールデン洋画劇場『続・激突!/カージャック』を放映していた。しかしその洋画は途中で中断し、本物のバスジャック事件としてこの事件の中継が放送された。長崎放送では事件発生当日にフィルムカメラのオーバーホールを行っており、また中継車は翌日のゴルフ中継のために準備されていたが、最終的にゴルフ中継に支障が出ても中継車を投入すべきだという意見が通り、人質救出の様子を中継することとなった。また、テレビ長崎がNNN加盟局として日本テレビに送った映像が日本テレビ制作のワイドショー番組でも使われ(これ自体は正当でよくある話)、そのワイドショー番組が長崎放送にネットされていたため、テレビ長崎の取材映像が長崎放送で流れることとなった。テレビ長崎ではその映像をみて全員が驚いたという。またNHK長崎放送局も運転席側から突入の瞬間を撮影している。事件の通称は「長崎バスジャック事件」だが、「長崎市内で発生したバスハイジャック事件」の意であり、「長崎バス(長崎自動車)の車両がハイジャックされた事件」ではない。また、事件が起きた「平戸 - 佐世保 - 長崎」間の路線バスは既に廃止になっているが、佐々 - 佐世保 - 長崎間は高速バスにより運行が継続されている(長崎 - 佐世保線)。
出典:wikipedia
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